Ⅰ 東西交易の海の道であった東南アジアには、世界の主要な宗教や文明が到来した。東南アジアはそれらの外来の文化を摂取し、各地で独自のものに作りかえていった。例えば、①~④はすべて東南アジアで用いられてきた文字であるが、これらは発祥地域オリジナルの文字から、現地の言葉を表記しやすいように改良が施されている。
問1
①は紀元1000年以前から用いられた系統に属する文字の二つの例である。これらの文字が東南アジアで用いられるようになった歴史的背景について、伝わった宗教・文化に留意しながら、「サンスクリット語」という言葉を用いて述べなさい(90字程度)。
問2
②は1300年前後から特に島嶼部で用いられた文字である。この文字が東南アジアで用いられるようになった歴史的背景について、この時期から広がった宗教とその伝播の担い手に留意しながら、述べなさい(90字程度)。
問3
③は東南アジア大陸部で使われていた文字である。図版からわかるように、この文書では元になった文字とそれをまねて作った文字を混ぜて、文章が書かれている。前者の導入と後者の作成の両方の背景について述べなさい。なお、後者の文字の呼び名は漢字でなく、カタカナで書くこと(80字程度)。
問4
④の文字が東南アジアにおいて受容された背景には、ヨーロッパ人の到来がある。16世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパ列強の東南アジア諸地域における活動形態の変化について、大きく二つの段階に分けて述べなさい。その際、解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)。
プランテーション 港市 カトリック布教 タイ
Ⅱ 次の文は、1911年にキリスト教思想家の内村鑑三(1881-1930年)によって行われた講演を活字化したもので、戦後日本の復興期には「みどりの野」という題でその内容が世に知られることとなったものである。この文を読んで、以下の問1~問4に答えなさい。(なお出題にあたって原文を適宜改めている。)
しかるに今を去る四十年前の[ A ]はもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒みし結果、ついに開戦の不幸を見、[ A ]人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能わず、デッペルの一戦(注)に北軍敗れてふたたび起つ能わざるにいたりました。[ A ]は和を乞いました。しかして敗北の賠償としてドイツ,オーストリアの二国に南部最良の二州[ B ]を割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかし[ A ]はこれがために窮困の極に達しました。(略)[ A ]人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ,財は尽き,見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。(略)しかるにここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガスといいまして,フランス種の[ A ]人でありました。(1)彼の祖先は有名なる[ C ]の一人でありまして,彼らは一六八五年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐われ,あるいは英国に,あるいはオランダに,あるいはプロイセンに,またあるいは[ A ]に逃れ来たりし者でありました。[ C ]の人はいたるところに自由と熱信と勤勉とを運びました。(略)しかして十九世紀の末に当って彼らはいまだなおその祖先の精神を失わなかったのであります。ダルガス,齢は今三十六歳,工兵士官として戦争に臨み,橋を架し,道路を築き,溝を掘るの際,彼は細かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復の策を蓄えました。すなわち[ A ]国の欧州大陸に連なる部分にして,その領土の大部分を占むるユトランドの荒漠を化してこれを沃饒の地となさんとの大計画を,彼はすでに彼の胸中に蓄えました。ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来たりしときに,ダルガス一人はその面に微笑みを湛えその首に希望の春を戴きました。「今や[ A ]にとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし,君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。(略)彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤をもって取り返さんとしました。(2)今や敵国に対して復讐戦を計画するにあらず,鋤と鍬とをもって残る領土の曠漠と闘い,これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。
(注) 1864年4月18日に戦われたドゥッブル堡塁の戦いのこと。
問1
空欄Aに入る国名と空欄Bに入る地名を答えなさい。
問2
下線部(1)の内容は,16~17世紀のヨーロッパにおける政治権力が,さまざまな宗教的変動を経験しながら,最終的にはキリスト教のいずれかの宗派を自ら統治する領域の公認信仰とし,それ以外の宗派を排除する傾向をもっていたことを示している。そこで,空欄Cに入る名称を答えた上で,下線部(1)の事態に至った歴史的経緯を述べなさい(100字程度)。
問3
下線部(2)のように内村鑑三が紹介したA国は,第一次世界大戦に参加しなかったにもかかわらず,1919年に締結されたヴェルサイユ条約の規定により1920年に実施された住民投票を通じて,ドイツとの国境線を改めた。また,第一次世界大戦後のヨーロッパでは,アメリカ合衆国のウィルソン大統領が1918年に発表した14カ条の原則にうたわれた考えに基づいて,新たな平和構築への取組みも見られた。
(a) 第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは,1918年に独立を回復したポーランドに対しても,ポーランドがバルト海へ出口を確保するための領域(いわゆるポーランド回廊)を割譲することとなった。ドイツがこの地域を含むバルト海の南東部に領土を有した中世以来の経緯を述べなさい(100字程度)。
(b) 世界最初の集団安全保障による平和維持組織として発足した国際連盟は,ヨーロッパにおける紛争を未然に防ぐ目的でヨーロッパ諸国間の係争地をその管理下に置いた。ザール地方はその一例である。ヨーロッパにおける平和構築との関係に留意しながら,第二次世界大戦後のザール地方の取扱いについて述べなさい(80字程度)。
問4
内村鑑三はこの時期の日本にあって非戦論を唱えたことでも知られている。その背景には,彼が生きた時代の東アジア情勢の変化と日本の東アジア諸国への影響力の拡大という事情があった。例えば日本は日英同盟を建前としながら第一次世界大戦に参加し,中華民国の袁世凱政府に対して21カ条の要求を行うなど,中国へも積極的に進出した。そこで問3の問題文で述べたヨーロッパでの平和構築の取組みとの関係にも留意しつつ,第一次世界大戦中の中国への日本の影響力拡大に対する中国とアメリカの対応について述べなさい。その際,解答には以下の語句をすべて用いること(150字程度)。
パリ講和会議 民族自決 旧ドイツ権益 ワシントン会議