東京外国語大学 2019年度 世界史過去問

世界史

〔1〕
 1917年のロシア革命により成立したロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト=ロシア)は,ヨーロッパのみならず,アジアにも政治,社会,文化等,さまざまな面で大きな影響を及ぼした。民族解放運動や反帝国主義運動の展開,英米などの資本主義列強とソヴィエト=ロシアの対立といった情勢の下で,20世紀のアジアの歴史はロシア革命,ソヴィエト=ロシアと結びつきながら展開されていくことになる。
 以下の[A][B]は,そのようなソヴィエト=ロシアとアジアの関係のあり方を示す史料である。これらの史料を読み,以下の問に答えなさい。なお,各史料内の注記(1)~(4)は出題者によるものであり,(   )は原文内の注記である。

[A]
 ①陳独秀「社会主義批評-広州公立法政学校での演説」『新青年』第9巻第3号,1921年7月1日

 資本主義の生産と分配の方法がなくならなければ,侵略的な軍国主義がなくなる道理はない。アメリカの②ウィルソン大統領の十四カ条(の平和原則)という大言が実現を見なかったのはなぜか。資本制度が国際的な侵略や戦争の根本の原因であることを,彼がわかっていなかったからである。〔中略〕
 当時,パリ講和会議での英,仏の代表たちは,決して良心においてウィルソンよりも劣っていたわけではない。彼らの国家組織は資本主義の上に成り立っており,もしも侵略主義や軍国主義を放棄したりすれば,彼らの国の大量の余剰生産物はどうやって売ればよいのか,経済危機をどうやって救えばよいのか,彼ら資本階級の地位はどうやって維持すればよいのか。ウィルソン大統領は耳触りのよいように言っただけで,もし,かのアメリカが本当に軍国主義を放棄してしまったら,アメリカは国外の植民地や市場も放棄するだろうか。放棄してしまったら,国内の余剰生産物はどうするのか。そんなわけで,ウィルソン大統領の主張はパリ講和会議であえなく挫折しただけでなく,当時のアメリカの陸海の軍備はこれまで同様に増加の一途をたどったのである。
 アメリカの情勢を見た日本は,太平洋西岸の商業勢力圏を失うのを恐れ,これまた懸命の増税によって,陸海の軍備を現状から倍増させるほど拡張せざるを得なかった。③日本の当局とて,税が重すぎることや全国の労働者,農民,小学校教師,下級の軍官の苦しさや不満が恐るべき危機であることは重々承知しているが,商業を守る十分な武力がないために,余剰生産物を輸出できなくなる方がもっと大きな危機であることをより理解している。それゆえに,軍拡が毒薬であることを知りながら,それを飲まねばならず,軍拡が落とし穴であることを知りながらも,その上を歩かねばならないのだ。
〔中略〕
 欧州大戦の結果,国際的な資本階級の基盤はすでに大きく揺らいでいると私は見ているが,今後さらに日米,英米の戦争が一,二度起これば,資本階級の末日,すなわち国際的な崩壊に至るであろうことを,より確信している。かくて,資本主義の生産,分配方法の欠陥は,すでに自分で自分の危機を救済できないところまで来ており,必然的に崩壊する運命にあること,また,それに取って代わるのは当然に社会主義の生産,分配の方法であり,そうしてはじめて,剰余価値や余剰生産といった弊害をとりのぞけるのだと断言することができるわけである。

(出典:石川禎浩/三好伸清編訳『陳独秀文集2-政治論集1 1920-1929』平凡社(東洋文庫876),2016年。なお,一部の表現を改めた。)

[B]
 1922年1~2月にロシアで開催された極東勤労者大会(1)において採択された決議「ワシントン会議の結果と極東の情勢」

 極東に不安定な四国同盟(アメリカ、日本、イギリス、フランス)の形成をもたらしたワシントン会議は、極東問題が現在、世界の帝国主義者たちの政治の最も重要な問題であるということを具体的に証明した。〔中略〕
 ワシントン会議は、太平洋の支配をめぐる新しい帝国主義戦争の勃発を一時延期した。しかし、この条件付きの延期は、すでに抑圧されている極東の人民をさらに奴隷化することによって得られた。ワシントン会議では、長い間苦しめられている朝鮮に関して一言も語られていない。〔中略〕
 ワシントンで受け容れられた中国の「門戸開放」政策実行についての合意は、中国の略奪における帝国主義者の強盗の特権の平等を公式に認めたものであり、そして、極東においてアメリカ帝国主義の最大の競争者である日本に対して向けられている。その代わり日本は、朝鮮、( ④ )、満州での搾取を続け、自治モンゴル(その手先である張作霖の助けによって)や、ソヴィエト=ロシアの方向へ、その支配を広げていく特権を与えられた。
 ワシントン会議は、朝鮮、中国、モンゴルの広範な大衆が抱いている、帝国主義者の側に少なくとも援助をあてにすることができるという意味の最後の幻想にとどめをさし、彼ら自身の団結と、すべての侵略者に対する組織的な闘争と、国際プロレタリアートやソヴィエト=ロシアとの団結によってのみ、彼らは独立と自由を獲得できるということを証明したのである。
 1905年の帝政ロシアでの革命は、朝鮮において日本の帝国主義者に行動の自由を与えた。朝鮮の奪取は、1883年に朝鮮の独立の維持を誓った、アメリカをも含めた大列強の完全な同意を得て実行された。〔中略〕
 1919年3月、朝鮮人民は絶え間ない苦しみと侵略と悪口によって、絶望の極点にまで追いつめられ、素手の人が蜂起し独立宣言を要求した。〔中略〕
 4億の人口をもつ中国は、実際には侵略的代列強の植民地にされ、ワシントン会議はこのことに対して公的な承認を与えた。〔中略〕
 なぜ日本画二十一ヵ条要求を完全に実行するのに失敗したのか、なぜアメリカが借款団を組織するのに失敗したのかという理由は、一方では、侵略者自身の間における帝国主義闘争であり、他方では中国人民の抵抗の一斉の爆発と、華南の革命家の闘争であった。〔中略〕
 中国産業の大部分、すなわち材木とか他のものは、外国人の手中にある。⑤革命的華南はその民族的存在のために闘っており、華北の軍国主義者から攻撃される危険を常にさらされており、国全体の民族的、民主主義的革命の勝利なしには、その地位を強化する望みはない〔中略〕
 ワシントン会議は、世界の前に大列強の政策の真の意味を暴露した。そして、民族的、社会的解放のために闘っている中国の勤労大衆は、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を指導者にして、帝国主義に対する断固たる闘いをすでに始めている、全世界の搾取されている勤労大衆を除いては、他のどんな同盟者をもあてにすることはできない。〔中略〕
 1919年の始めと1920年の終わりに、日本帝国主義はモンゴルで、次のような代理人を通じて活発な活動をおこした。すなわち安福派(2)の指導者とモンゴル地域の全権大使――「小徐(3)」とそしてその他のもの――「ウンゲルン男爵(4)」である。ウンゲルンの目的は、日本の利益のためモンゴル人民を奴隷化すること、そして、モンゴルを、最初の労働者の共和国である⑥ソヴィエト=ロシアに対する、日本の帝国主義の闘いの根拠地とすることであった。〔中略〕
 武装闘争と友好的なソヴィエト=ロシアの赤軍との強力によって、外国人抑圧者――ロシア白軍や日本帝国主義の案内人である中国の帝国主義者――の支配から自らを解放して、⑦モンゴルはついに自らのことを自らの方法で決める機会を確保した

(出典:コミンテルン編,高屋定国/辻野功訳『極東勤労者大会』合同出版,1970年。なお一部の表現を改めた。)

〔注記〕
(1)
 コミンテルンが主催し、中国、朝鮮、モンゴル等アジア極東各地から代表を集めて開催した会議。コミンテルンは、列強がソヴィエト=ロシアを除外して開催したワシントン会議に対抗し、極東諸民族との関係を構築すべく、この会議を開催した。
(2)
 北洋軍閥安徽派の段祺瑞を支える集団。
(3)
 徐樹錚。中華民国からモンゴルに派遣され、外モンゴル自治の廃止を遂行した。
(4)
 ロシア白軍の軍人。ロシア革命後、ボリシェヴィキに抵抗して戦い、1920年秋、自治廃止後のモンゴルに進出した。

問1
 下線部①に関連して,陳独秀がこの文章を掲載した雑誌『新青年』は当初,「民主と科学」を掲げて厳しい儒教批判を行い,後には中国共産党の機関誌としての役割を果たした。一方,文学方面では,「白話運動」を提唱する舞台でもあった。この白話文学を代表する作家で,日本の仙台にも留学経験のあった人物の名を答えなさい。また,この人物の代表作で,貧農の男を主人公として当時の中国の人々の精神を諷刺,批判した小説の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,この十四カ条が発表された背景には,民族自決に対するソヴィエト=ロシアの肯定的な姿勢があった。すでにロシア革命の際に,全世界の政府と人民に無併合,無償金,民族自決に基づく即時講和を呼びかけた布告が,ロシアでは出されていた。レーニンが起草し,1917年11月8日に採択されたこの布告の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③に関連して,社会主義への関心は,日本では労働運動や農民運動などを活発化させ,女性解放運動や部落差別撤廃運動も始まった。こうした大衆の運動を抑圧するために1925年に日本政府が制定した法律は,後に思想統制に用いられていった。この法律の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 第一次世界大戦中,日本は袁世凱に,中国北部の租借地におけるドイツの権益を日本が引き継ぐことなどを含む二十一カ条要求を認めさせた。パリ講和会議で中国は二十一カ条要求の無効を求めたが,認められなかった。この租借地があった,( ④ )に入る半島の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,極東勤労者大会には,中国共産党とは別に,孫文が率いる中国国民党からも代表が送られた。この後ソ連にさらに接近した孫文は,1924年には中国国民党を改組し,ソ連との連帯や中国共産党員の受け入れを強化していく。1925年に孫文は死去するが,その後継者となった人物は国民革命軍を組織し,その総司令として中国統一を目指す北伐を進めた。この人物の名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,当時の日米等各列強は,ロシア白軍を支援し,ソヴィエト=ロシアと戦うために軍を派遣した。ロシア革命直後,ソヴィエト=ロシアに対して行われた列強のこの派兵を何と呼ぶか答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦に関連して,1920年,モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)は,中国の抑圧からのモンゴルの解放を目指し,ソヴィエト=ロシアに援助を要請した。この初期のモンゴル人民党のメンバーの1人で,1930年代後半にモンゴル人民共和国の最高指導者として台頭し,モンゴルで大粛清を遂行した人物の名を答えなさい。〔5点〕

問8
 史料[A][B]には,アジアに進出し始めたソヴィエト=ロシアと,アジアの人々との相互の関係が,歴史的事象を通じて示されている。アジア各地域の人々は,成立して間もないソヴィエト=ロシアをどのように受け入れ,関係を築いたのだろうか。この問題について,アジアと資本主義列強の関係,ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係,アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係を踏まえながら,500字以内で論じなさい。
 その際,史料[A][B]と出題者による注記,問1~7の設問文を参考にしなさい。また,問2の解答と以下の語句の合計4語を解答に必ず使用し,使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔25点〕

三一運動   民族解放   陳独秀

〔2〕
 一般に人権とは,人が生まれながらにして等しく有する権利であると考えられている。人権には自由および財産を国に脅かされない権利だけでなく,政治参加のための権利(参政権)や,人間らしい生活を送るための権利(生存権的基本権)も含まれるとされる。
 以下の文章は,アメリカの歴史家リン・ハントの『人権を創造する』から抜粋したものである。この文章を読み,以下の問に答えなさい。なお,文中の(   )は原文内の注記であり,〔   〕は出題者による注記である。

 18世紀のふたつの宣言〔アメリカ独立宣言および人間と市民の権利の宣言、いわゆるフランス人権宣言〕は、言葉づかいの違いにもかかわらず、どちらも自明であるという首長にもとづいていた。①「われわれはこれらの真理を自明のものと考える」とジェファソンが書いたとき、彼はそのことを明白なものとした。フランスの宣言は「人権にかんする無知、無視あるいは軽蔑が公衆の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」と断定的に述べた。この点にかんしては、1948年まであまり変わらなかった。たしかに、国際連合の宣言はより法律を尊重する語調をとっていた。つまり「人類という家族のあらゆる構成員の固有の尊厳と平等で譲渡しえない権利とを承認することは、世界における自由と西魏と平和の基礎であるがゆえに」と。しかしこれもまた自明であることの主張であった。〔中略〕
 現在でさえ人権にとってきわめて重要なこの自明性の主張は、ひとつのパラドックスをもたらす。つまり、②もし権利の平等がそれほど自明であるなら、いったいなぜこの主張がなされねばならなかったのか、そしてなぜその主張がある特定の時代と場所においてのみなされたのか、ということがそれである。人権が普遍的に認められていないなら、どのようにして人権はあらゆる人間に当てはまるものとなりうるのだろうか。〔中略〕
 わたしは、自明性の主張は人権の歴史にとってきわめて重要だと思っており、本書も、この主張が18世紀末にどうしてあれほど説得力をもつにいたったかを説明することにむけられている。幸いにも、その主張はまた、きわめて拡散した歴史となりがちな歴史に焦点をあたえることになる。人権は現在ではいたるところで問題になっているので、その歴史もおなじように包括的な歴史であることが求められよう。③個人についてのギリシア人の考え方、法律と権利にかんするローマ人の観念、霊魂にかんするキリスト京都の教義……恐れなければならないのは、人権の歴史が西洋文明の歴史、あるいは現在ではときとして世界全体の歴史とさえなってしまうことである。古代バビロニア、ヒンドゥー教、仏教、④イスラム教もすべて、人権の歴史にそれぞれ寄与していないだろうか。わたしたちは、いったいどのように18世紀末において人権の主張がとつぜん結晶化したことを説明すればよいのだろうか。
 人権は、3つの連動する性質を要請する。つまり、人権は生得的なもの(人間に固有のもの)であり、平等(あらゆる人間にとって同じもの)である、普遍的(どこでも適用可能)でなければならないのだ。権利が人権になるためには、あらゆる人間が世界のどこでもその権利を平等に、しかも彼らが人間であるという理由のみで、享受しなければならないのである。〔中略〕
 しかし、生得性や平等性、そして普遍性を受け入れたとしても、まだ十分ではない。人権は政治的内実を獲得するときにのみ、はじめて意味あるものとなるのである。それは自然状態における人間の権利ではなく、社会における人間の権利である。それはたんに神の権利に対立するものとしての人権とか、動物の権利に対立するものとしての人権ではなく、人間それぞれにたいする人間の権利なのである。⑤それゆえに人権は(たとえ「神聖な」と呼ばれることがあるにしろ)世俗的な政治世界において保障される権利であり、その権利をもつ人びとの側からの積極的な参加を要請する権利なのだ
 権利の平等性と普遍性、そして生得性は、1776年のアメリカ独立宣言と1789年のフランス人権宣言においてはじめて単刀直入な政治的表現を獲得した。⑥1689年のイギリスの権利の章典は、イギリス法によって確立され、イギリスの歴史に由来する「古来の権利と自由」に言及するいっぽうで、権利の平等性や普遍性、あるいは生得性を言明しなかった。対照的に、アメリカ独立宣言は、「あらゆる人間は平等に創造され」、人間はすべて「譲渡しえない権利」を有していることを強調した。同様に、フランスの「人間と市民の権利の宣言」は「人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、そうありつづける」ことを宣言した。フランス人でもなく、白人でもなく、カトリック教徒でもなく、「人間」であり、それは当時も現在もおなじく、たんに男性だけでなく人間、つまり人類の構成員を意味していた。⑦いいかえるなら、1689年から1776年にいたるまでのどこかの時点で、特定の国民――たとえば、自由の身に生まれたイギリス人――の権利ときわめてしばしばみなされていた権利が、フランス人たちが「人間の権利」と呼んだ普遍的で生得的な権利としての人権に、変容したのだった

(出典:リン・ハント著,松浦義弘訳『人権を創造する』岩波書店,2011年。なお、一部の表現を改めた。)

問1
 下線部①に関連して,トマス・ペインは1776年1月,アメリカのフィラデルフィアにおいて,13植民地のイギリスからの独立を呼びかける冊子を出版した。この冊子は植民地内で多くの人々に読まれ,独立支持を広めたと考えられている。この冊子の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,このように人権の普遍性が議論されるようになった背景のひとつには,「人種」を超えた生物としてのヒトの普遍性を理解しようとする,18世紀の自然科学の発展があった。動植物の分類体系の基礎を築き,「ホモ・サピエンス」の学名を考案したスウェーデンの博物学者の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③「個人についてのギリシア人の考え方」に関連して,プラトンの弟子である( ア )は,著書『政治学』において,人間はその本性において「国家をもつ(ポリス的)動物」であると論じている。この考え方は,国家のあり方や,人と国家との関係について後世の議論に大きな影響を及ぼした。さらに,( ア )は,哲学や政治だけでなく,論理や倫理から自然科学にいたるまで深い学識を持ち,学問を体系化したことから,「万学の祖」とも称されている。この( ア )に入る人物の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④「イスラム教」に関連して,16世紀のオスマン帝国では,一部のヨーロッパの国からの来訪者には帝国領内における居留の自由や,通商の自由,免税などの特権があたえられた。しかし,オスマン帝国の弱体化にともない,こうした特権は拡大解釈され,ヨーロッパ諸国の裁判権や関税自主権へと転化し,オスマン帝国にとって不利な不平等条約へと発展した。この特権の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,西欧諸国では最初は男性に対してのみ普通選挙権が認められたが,20世紀に入ると徐々に,女性参政権が広まっていった。近年では,女性も国政において主導的な立場を担うようになっている。このような中で,2005年にドイツで女性としてはじめて首相になった政治家の名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,権利の章典が言及した「古来の権利と自由」は,軍役などの負担に疲弊したイングランド諸侯が立ち上がり,国王に認めさせた大憲章(マグナ・カルタ)に由来すると考えられた。大憲章は,封建社会の自由人の権利を認めたため,国民の自由の根拠であると解釈されたからである。諸侯の要求に屈し,この大憲章を認めたイングランド国王の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦が示すように,アメリカ独立やフランス革命を経て「普遍的で生得的な権利」としての人権という考え方が生まれたが,その後,すぐにあらゆる人々の人権が等しく守られるようになったわけではない。例えば,ヨーロッパでは19世紀以降もユダヤ人への偏見,差別,迫害が根強く残存していた。19世紀末のフランスでは,この反ユダヤ主義を一因とする事件が発生し,世論を二分する論争を起こして,第三共和政のあり方そのものに影響を及ぼした。この事件の概要を,40字以内で説明しなさい。〔10点〕

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