世界史論述対策 第4回 【東京大学1981年度-1】

世界史
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東京大学1981年度-1

 9〜10世紀における西ヨーロッパ、東ローマ帝国、イスラム世界は、それぞれどのような特色をもっていたか、互いに対比しながら、下記の語句を少なくとも1回は使って、600字以内に述べよ。なお、下記の語句を最初に用いたときに、下線を付せ。

コルドバ   バグダード   スラヴ族への布教   外民族の侵入  農耕社会への移行

古典荘園   ムスリム商人  ギリシア語文献の翻訳 コンスタンティノープル 都市文明

解説

 この問題は三つの地域を「互いに対比しながら~」とありますから、第2回と同様に、同じカテゴリごとに要素を整理する必要があります。

 どんなカテゴリ分けとするかは自分で考えないといけませんが、指定語句をヒントに考えていきましょう。しかし、ほとんどの問題が、「政治」・「社会・経済」・「文化・宗教」で対応できるはずです。ここでいう「政治」とは、国家に関する出来事が中心で、「社会・経済」は、民衆に関する出来事が中心になります。もちろん例外はありますが、考える足がかりにはなるでしょう。

 東京大学は例年第1問に600字前後の大論述を持ってきます。しかもただの歴史的出来事の羅列では対処しきれない内容です。今回の問題も、整理して書かないと点数はつきません。知識の正確さ以上にどう考えをまとめるか、どう自分の考えを伝えるかが重要になります。

論述ポイント1

 実際に問題を見ていきましょう。時代は「9~10世紀」、場所は「西ヨーロッパ・東ローマ帝国・イスラム世界」の三地域です。書くべき内容が非常に多岐にわたるので、一度指定語句を整理しましょう。

西ヨーロッパ東ローマ帝国イスラム世界
・外民族の侵入
・農耕社会への移行
・古典荘園
・都市文明
・スラヴ族への布教
・コンスタンティノープル
・コルドバ
・バグダード
・ギリシア語文献の翻訳
・ムスリム商人

 ざっと分けると、こうなるでしょうか。
 ん?となるところもあるかもしれませんが、とりあえず、こう分類した上で話を進めます。

 政治面から各地域を見ていきましょう。

 9~10世紀の西ヨーロッパは、カール大帝・オットー1世の時代だと思えば良いでしょう。カールの戴冠が800年のクリスマスですから、そのすぐ後からが対象の年代になります。カール大帝時代は広範囲に統一されていたフランク王国ですが、その孫の代になると3つに分裂します。ヴェルダン条約(843年)・メルセン条約(870年)がこの時期ですね。

 ちなみに、この時アルザス(エルザス)・ロレーヌ(ロートリンゲン)が西フランクと東フランクの境となるので覚えておきましょう。その後、西ヨーロッパは政治的に統一されず、分断された状態になります。

 「外民族の侵入」という指定語句がありますが、これはオットー1世の時期にマジャール人が侵入してきたこと、またノルマン人やイスラム教徒が断続的に西ヨーロッパ世界に顔を出したことなどを書いておきましょう。

 次に東ローマ帝国ですが、当時の都は相変わらずコンスタンティノープルです。皇帝教皇主義が採られ、強い王権が維持されていました。これ以上のことは書くことがありません。西ヨーロッパとの対比で、「…統一が続いた。」くらいのまとめしかできないでしょう。

 イスラム世界では、「バグダード」を都とするアッバース朝、「コルドバ」を都とする後ウマイヤ朝、カイロを都とするファーティマ朝がそれぞれ建った3カリフ鼎立時代です。

 指定語句で2つ首都が出ていますから、ファーティマ朝のカイロも書いておきましょう。東ローマ帝国と同じく、西ヨーロッパと対比させると、統一されていた勢力が分裂したというまとめ方になるでしょうか。

 政治面をこの観点からまとめていきます。以下同様に社会・経済面、文化・社会面をまとめていきましょう。

論述ポイント2

 西ヨーロッパの社会・経済面を見ていきます。古代ローマ時代、西ヨーロッパの人々の食糧は北アフリカの農園で生産されていました。ポエニ戦争以来の植民地経営が彼らの胃袋を支えていたのです。

 それが、9~10世紀に入ると、北アフリカは当然イスラム圏となっています。農業に向かないヨーロッパの大地で彼らは農業を始めるほかなかったのです。そして、彼らは自らの農園を守る必要がありました。自衛できる人はいいですが、満足に生活も出来ない中で、自衛のための武器を揃えるのは大変な苦労を伴います。彼らは農園の保護を有力者に頼むようになります。これが古典荘園の始まりです。

 統一的な政治権力がない中で、防衛に軸を置いた土地制度ができあがったのです。実際に解答を獲得はここまで詳しくは書けませんので、「農耕社会への移行」が「古典荘園」を形成した、としておきましょう。

 付記するならば、当時の経済は現物交換であり、イスラムや中国のように貨幣経済ではないということが入れておいてもいいでしょう。

 東ローマ帝国では、テマ制や屯田兵制の登場がこの時代です。内容を確認しておくと、帝国をいくつかの軍管区に細分化し、それぞれの地域の長官が民事行政権を持つようになったのがテマ制。その軍管区の兵士に、土地保有を義務づけ、農業生産と兵役を確保したのが屯田兵制です。

 土地制度として、西ヨーロッパの古典荘園との対比を意識しましょう。

 また、9~10世紀にはビザンツ商人が活発に活動を始めています。イスラム世界の物品を西ヨーロッパへと運ぶ役割を担っていました。こうした東ローマ(ビザンツ)の商業活動が、後の十字軍や大航海時代につながってくるので、もう一度確認しておくと良いでしょう。

 イスラム世界を見ていきます。東ローマ帝国のところでも触れましたが、イスラム商人の活動が活発になっています。元来、イスラム教は大商家を出自にもつムハンマドが始祖ですから、当然と言えば、当然のことです。

 五行の中に喜捨(ザカート)があるように、儲けることは悪だとはされていません。むしろ稼ぐ力のある者は人一倍稼ぎ、そうでない者に分け与えることを求めています。こうしたイスラム商人の活動範囲は広く、中国・東南アジアからアフリカ東岸までのインド洋から南シナ海を行き来しました。

 社会・経済面はこのようなところでしょうか。もう少しイスラム世界の記述を充実させても良いですが、その内容が果たして9~10世紀に対応しているのか怪しいところがありますから、他のところを充実させるのが賢明でしょう。

論述ポイント3

 最後に文化・宗教を見ます。

 まず西ヨーロッパでは、キリスト教会が文化の担い手となります。荘園にも一つ教会があり、人々の生活に根付いたものとなりました。聖書はラテン語で書かれたものの、人々はそれぞれ現地の言葉を話しました。文字を操る文化人は聖職者であり、彼らの創作物はラテン語で著されたため、庶民の文化は育っていません。上流階級の人々のみ、文化を享受できたと言ってもいいでしょう。

 指定語句に「都市文明」とありますが、西ヨーロッパで都市文明は育っていません。各都市が自治権を有し、商業資本に基づく新たな文化を生み出したのはルネサンス前後になってからのことです。この時代はまだ教会による制限があったということですね。

 ですので、あまり良い書き方ではないですが、「都市文明は育たず、教会・聖職者が文化の担い手であった。」とするしかないでしょう。

 東ローマ帝国の文化は「スラヴ族への布教」が中心ですね。スラヴ族に布教されたのは当然ギリシア正教で、グラゴール文字が生み出されたのもその布教がきっかけです。

 最後にイスラム世界ですが、「ギリシア語文献」が残っています。イスラム世界では知恵の館を中心にアリストテレスやプラトンなどの文献をギリシア語からアラビア語へと翻訳しました。東ローマ帝国よりもイスラム世界の方が、古代ギリシアの研究を行っていたのです。

 ここで注意してほしいのが、ギリシア語からアラビア語への翻訳だということです。似た内容でよく出題されるのが、「アラビア語からラテン語への翻訳」です。これはトレドパレルモで行われたものですが、これがきっかけで起こったのは12世紀ルネサンスです。この出題とは年代が違います。12世紀ルネサンスが起きる前段階の文化活動が9~10世紀のイスラム世界でおこっていたということですね。

まとめ

 以上の内容をコンパクトにまとめないといけません。600字となると多いと感じるかもしれませんが、全部で9つの要素を入れないといけないので、一つあたり60字前後しか書けません。

 意外と東大論述は字数が少ないのです。その辺りを意識しながら自分で解答をまとめてもらえればと思います。



第5回に続きます。

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