第1問
ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。
このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。
グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク
ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争
第2問
アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。
問(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。
(a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。
(b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。
問(2) 14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。
(a) 最15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。
(b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。
問(3) 18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)~(c)の問いに、冒頭に(a)~(c)を付して答えなさい。
(a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。
(b) インドでは、ラーム=モーハン=口一イが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。
(c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。
第3問
人類は有史以来、司馬遷の『史記』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』、さらにはホイジンガの『中世の秋』などのすぐれた歴史叙述を生みだしてきた。しかし世界史教科書の記述では、文学・哲学の著作や芸術・科学技術の業績と比べて、歴史書の紹介が十分とはいえない。とはいえ歴史書は、それぞれの時代や人々の生き方と分かち難く結び付いている。そこで以下の歴史叙述に関わる文章A・B・Cのなかで、下線を付した部分に関する設問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。
A 中世ヨーロッパにおいては神学が重視され、歴史叙述もその影響下にあった。このような思考の枠組を脱し人間のありのままの姿や歴史を見つめようとしたのがルネサンス期の(1)人文主義であり、そこではギリシア・ローマの古典文化が再発見されたのである。その古典期ギリシアでは(2)世界最古の個人による歴史叙述が試みられており、そうした伝統のなかで地中海世界における(3)ローマ興隆史、あるいは建国史を究めようとする歴史家も登場した。やがて古代末期になると、(4)キリスト教の信仰を正当化する歴史叙述も生まれるようになった。
問(1) 政治を、宗教や道徳から切りはなして現実主義的に考察したフィレンツェの失意の政治家は『ローマ史論』とともに、近代政治学の先駆となる作品も書いている。この人物の名と作品の名を記しなさい。
問(2) それまでは年代記のような記録しかなかったがギリシア人の一人はペルシア戦争の歴史を物語風に叙述し、もう一人はペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述した。それぞれの歴史家の名を記しなさい。
問(3) 前2世紀のローマ興隆を目撃し実用的な歴史書を書いたギリシア人がおり、ローマ建国以来の歴史をつづったアウグストゥス帝治世下のローマ人もいる。それぞれの歴史家の名を記しなさい。
問(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家が現れる一方、神学とともに歴史哲学の書でもある『神の国』を著して後世の人々の信仰や思想に大きな影響をあたえた教父作家も出現した。それぞれの教父作家の名を記しなさい。
B アラム文字に由来する突厥文字は中央ユーラシアで活躍した北方遊牧民の最古の文字と見られる。この文字によってオルホン碑文など(5)突厥の君主や歴史に関する貴重な記録が残された。中央ユーラシアから西アジアに目を転じれば、14世紀の(6)アラブの歴史家は『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉を中心に王朝興亡の歴史の法則性を求めたが、その鋭い歴史哲学は、現在でも新鮮な示唆に富んでいる。ほぼ同時期のイランでもイル=ハン国のガザン=ハンの宰相ラシード=アッディーンは、(7)壮大な歴史書をペルシア語で記述したが、それは、ユーラシアの東西をまたにかけて支配したモンゴル帝国の歴史を知る重要史料となっている。
問(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名を答えよ。また突厥の前に現れた匈奴の最盛期の君主名を記しなさい。
問(6) チュニジアに生まれたこの歴史家は、エジプトの大法官などをつとめ、シリアに軍をすすめたティムールと会見したことでも知られる。この人物の名を記しなさい。
問(7) この歴史書の名を記しなさい。
C 広大な植民地をかかえるイギリスの20世紀を代表する歴史家として、トインビー(1889-1975)とカー(1892-1982)をあげることができる。トインビーはギリシア・ローマ史の研究者として出発したが、長期化した(8)第一次世界大戦に世界史を見直す手がかりを見出し、40年の歳月をかけて「文明」を構成単位とする全12巻の大著『歴史の研究』を完成させた。カーは外交官となった直後に起きた(9)1917年のロシア革命に大きな衝撃を受け、膨大な史料と対話を重ね、30年以上を費やして10巻におよぶ『ソヴィエト・ロシア史』を完成させた。一方、イギリスの植民地であった(10)インドでも優れた歴史書が書かれた。
問(8) 第一次世界大戦の体験から『西洋の没落』を著して西洋文明の衰退を予言し、大きな反響をよんだ歴史家の名を記しなさい。
問(9) ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し世界革命論を唱えた人物はだれか。また、ロシア革命を批判したのち、ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策にも反対し、大部の『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家は誰か。これら2人の名を記しなさい。
問(10) インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい。