次のⅠ~Ⅳの各問について、400字以内で解答せよ。
Ⅰ
中国人の海外移住の歴史は古いが、明代以降、多くの中国人が海外に移住していった。明代以降の中国人の海外移住の歴史と中国本土との関係を以下の語句を用いて述べなさい。
海禁 華僑 シンガポール 孫文 鄭和
Ⅱ
紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけてのエジプトとシリア地方との関係について、以下の語句を用いて述べなさい。
テル=エル=アマルナ 戦車と馬 アメンホテプ4世 「海の民」
ヒクソス
Ⅲ
16世紀後半から19世紀末までのロシアの東方進出について、以下の語句を用いて述べなさい。
アラスカ イリ条約 コーカンド=ハン国 ネルチンスク条約
ムラヴィヨフ
Ⅳ
以下のテキストを読み、下線部に注意しながら、間(1)および間(2)に答えなさい。
1804年12月2日、パリのノートル・ダム寺院で戴冠式がおこなわれた。ナポレオンはたしかにシャルルマーニュ〔カール大帝〕を追憶した。しかし大帝はローマに行って儀式をおこなったが、ナポレオンは教皇ピオ7世をパリに招いた。その効果をかれは計算していた。しかも教皇の手で加冠することになっていたのに、その瞬間かれは帝冠をとりあげ、自分で頭上にのせた。このふるまいはナポレオンをいかにもよくあらわしている。そのあとで、ひざまずくジョゼフィーヌに冠をおこうとした。ルーヴル博物館のダヴィドの絵はこの瞬間をとらえている。ナポレオンの母方の叔父フエシュ枢機官とならぶ教皇は、不興げな表情をしている。
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ベートーヴェンの伝記のなかで、第三ジンフォニーについて、かれの苦悶するすがたは、感動的な偉大さをもっている。
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もともと共和的な思想をいだいていた芸術家には、故国の敗戦とはべつの問題として、ナポレオンが自由精神、人間解放の選手として新しい時代をつげる英雄のようにおもわれた。フランスとオーストリアの講和後、ヴィーンにはベルナドットが公使としてのりこみ、ベートーヴェンにナポレオンに対する関心をかきたてた。ナポレオンの終身執政就任の報は音楽家の不安をかきたてたが、理想化された英雄の像はまだくずれなかった。1803年、ベートーヴェンはやむにやまれぬ芸術的意欲を第三ジンフォニーの作曲にそそぎ翌年にいたって完成し、表紙にボナパルトと記入した。フランス軍は解放の革命的軍隊であり、ナポレオンは革命的英雄でなければならなかった。これが『エロイカ』のテーマである。しかしナポレオンの皇帝に即位したという報告は、まもなく全ヨーロッパにつたえられた。ベートーヴェンは大きな衝撃をうけ、はじめてナポレオンの侵略者、独裁者としての存在に眼をひらいた。
(井上幸治『ナポレオン』岩波新書)
問(1) ローマ教皇に対するカール大帝とナポレオンの態度の差はどこからきているか。それはまた二人の文化政策にどのようにあらわれているか。
問(2) ナポレオンの「革命的英雄」としての側面と、「侵略者」としての側面をもっともよくあらわしていると思われる事例(政策)を各々ひとつ挙げ、説明を加えなさい。