東京外国語大学 2018年度 世界史過去問

世界史

〔1〕
 人類はこれまでにじつに多くの災害を経験してきた。そのなかには,人智の及ばない原因による自然災害もあれば,人為的な原因による災害もあった。被災者や,災害をこうむった社会は,被災者個々人の臨機応変で忍耐強い自助努力だけでなく,被災者どうしの助け合いや,地域社会や政府,国際社会からの人道支援,さらには海外への移住によって災害を乗り越えてきた。そのような努力はしばしば被災した地域だけでなく,周辺地域の社会にまで変化をもたらし,ときには広く国際社会にまで影響を及ぼして,世界史上の画期となることもあった。
 以下の〔A〕~〔C〕は,近代以降,人類が経験した災害とその対応についての史料からの抜粋である。これらの史料を読み,以下の問に答えなさい。
 なお,各史料の冒頭には解説文が付されている。また,〔   〕及び*は,出題者による注記である。〔60点〕

〔A〕
 アイルランドでは,1845年から約5年間,ジャガイモの凶作が続き,飢饉が発生した。とくにジャガイモを主食としていた貧農層が大きな被害を受け,およそ100万人が死亡し,150万人が移民によってアイルランドを離れたと推測される。飢饉が発生すると,宗教団体による慈善事業として,アイルランドの各地に炊き出し所が設置され,困窮者に食事が配給された。下記の史料は,そうした炊き出し所のひとつで,アイルランド南部の都市コークに設置された施設についての新聞記事の一部と挿絵である。その後,炊き出し所は効果的な対策であると認められ,国費による炊き出し所の設置,運営が始まった。全体の規模としては,最大で1日300万人に食事が提供され,配給が行われた期間は死亡率が低下したことが判明している。

[以下,史料本文]

 図版には,①コークの街において被害を緩和するための慈善の試み,すなわちフレンド会〔クエーカーとも呼ばれるキリスト教徒の一派〕の炊き出し所が描かれている。アイルランドには,このような炊き出しを行う施設が各地に存在する。そのなかで,この図版を選んだのは,炊き出しがフレンド会によって始められたからである。炊き出し所を運営する資金は,主に慈善の施し手となる人々から集められている。現在,この施設は毎日1500ガロンのスープを提供することができるが,そのための出費,ないし費用は,ひと月に120ポンドから150ポンドであり,これを炊き出し所の支援者が負担している。現時点では,毎日150ガロンから180ガロンのスープの需要がある。これには新鮮な牛肉120ポンド,米27ポンド,乾燥エンドウ豆14オンス,そして適量の野菜が必要になる。配給券の値段は,誰もが買えるように,1枚1ペニーで配布されている。困窮者はこの配給券を提示すると,スープ1クォートとパンひと塊が支給される。きちんと調理された,栄養のあるスープとパンである。

説明: U794W1@@01

 スープは可能な限り清潔な状態のもとで,つくられている。安い食事を求めて炊き出し所に集まる貧民や,スープがつくられているのを見にくる人々,そして,スープの品質を検査し,改善案を出す人々が炊き出し所を汚さないように十分注意が払われている。②図版に描かれている大樽の中身は,隣接する建物に設置された蒸気機関によって攪拌されている。スープの鮮度と美味しさを維持するため,同じ樽を使い続けるのではなく,複数の樽を交互に用いている。この炊き出し所とフレンド会活動全般は,惜しみない賛辞に値する。というのも,③フレンド会は,これらの炊き出し所を考案するだけではよしとせず,炊き出し所を西部に広め,遠方の貧民をより効果的に救うために,資金を集めてきたからである*

(出典:Illustrated London News, 16 January 1847)

* アイルランド内外では,多くの募金組織が設立された。ヨーロッパ諸地域からだけでなく,オスマン帝国やインドからも多額の義援金が寄せられた。

〔B〕
 1919―1920年に,2年連続の干ばつから凶作が続き,中国華北の広大な地域で大飢饉が発生した。この飢饉の被災者は2000万人,犠牲者は50万人に達したという。この飢饉では,公的な救済以外に,居住地を捨てて移住するなど,民衆は独自に救済を模索した。災害は,このような民衆の反応を通じて,大きな社会的変化を引き起こすことがある。日本人が上海に創設した東亜同文書院の研究部は,『北支那飢饉救済の調査』という報告書に,この飢饉の様子を詳細に記述した。以下は,この報告書からの抜粋である。

[以下,史料本文]

一、窮民が困難に対応した経緯
 今回飢饉救済として最も広く行われ、かつ大きな効果があったものは平糶*だと、我等は信じている。即ち主として東三省の高梁〔もろこしの一種。コーリャン〕を購入してきたものであり、多少なりとも財貨がある農民はこれによって飢餓を避けられるであろうし、財貨がない民は蝋直を売って賃金を得て、これを食糧資金に当て、働こうと思っても職がない者は、居住地とは別の省に流れ移り、各々生計を立てる方法を求めた。〔中略〕

五、人民の四散状況
 ④飢饉のために居住地とは別の省に流れ移った人々について、県知事または農民に直接聞いても、別の省に出た人民は非常に多い、と答える。その数は、と聞くと、数えられない、とほとんど各地方の人が異口同音に答えるだけである。〔中略〕
 いま明らかになっている逃亡戸数のみについてその総計を求めると、163,943戸あり、仮に1戸4人と見なしてその人員を求めると655,772人となり、これに直隷〔概ね現在の河北省〕、華南の逃亡人員を加算すれば、その数は莫大なものとなる。〔中略〕
 天津においては最初10万余の流民がいたが、日本領事館において救済に当たった今年1月頃には訳6万余となり、そのうち4万は帰郷し、1万は黒竜江方面に移民し、残余の1万は天津にて実施した施療所等に厄介になり、現に滞在している。〔中略〕

六、飢饉語における住民の気風
 〔中略〕もっとも、一隊に干ばつのため不作であることは争えない事実であり、馬糧に当てるべき飼い草さえも非常に不足を来たしている。そのため、目下車馬の運賃は非常に高くなっている。〔中略〕

七、現在における土匪〔土着の武装集団〕の害
 我等が磁県〔河北省〕を出発しようとすると、⑤土匪の横行が頻繁であるということを聞いた。特に臨漳県〔河北省〕付近は最もこの害があり、我等がこの地に至った時も多数の土匪討伐軍が駐在していた。〔中略〕

十二、飢饉後における人民の政府に対する感想
 〔中略〕さてこの度の災害に対して率先して目覚しい救済活動に当たったのは米国*である。中国政府及び貴紳は外国救済団に刺激を受けて漸く救済に取りかかる有様である。而してその最も顕著なのは、政府関係者が組織した賑務処〔災害救援局〕が行なっている急募借款による救済だとされる。元来中国の下級農民は、自然の恩恵が乏しい地域に育てられた故に、困苦欠乏に耐え忍ぶのに強く、たびたび干ばつ水害に侵されてもこれは天の命だと諦め、中央政府、地方官等に救いを期待することなく、自衛の道を講じて窮境に対処するのを常とする。〔中略〕
 一部有識者階級である学生新聞の記者等は、当初より、一斉に筆を揃えて中央政府、地方官、各地富豪の冷淡を攻撃し、被災者の苦境を天下に訴えた。

* 平糶(へいちょう):政府や地方行政機関等の備蓄米穀を市場価格より安く販売し,飢饉で混乱した米穀価格を調整すること。

* この報告書の別の箇所の記述によると,日英米仏の公使が共同で運営に当たった国際統一救済会は国際的義援金を募集し,救済団体の中でも最大の活動をした。国際統一救済会では,アメリカ及び米国赤十字社が募集した義援金が最も多く,1921年5月末の時点で合わせて8,967,000元に達した。

(出典:永岡正己/沈潔監修『戦前・戦中期アジア研究資料6:中国占領地の社会調査Ⅰ,23巻:社会事業・災害救助①』近現代資料刊行会,2011年。なお、一部を省略し、現代日本語表現に全面的に改めた。)

〔C〕
 核エネルギーの実用化は,広島,長崎への原爆投下が示すとおり軍事面で先行した。その非人道性への反省から推進されだした平和利用も,チェルノブイリ原発が例証したように事故の危険性から無縁ではない。その用途が何であれ核の超絶的破壊力と放射能は人類の存続を脅かしかねず,核実験,核戦争,または原発事故の惹起しうる大災害が現実の脅威となったことで,20世紀は災害史の新時代を画したといえる。このなか,核戦争の危機をいちはやく先見した指導的科学者たちは,打開の糸口を国際社会の連携に見出した。以下は1955年発表の「ラッセル・アインシュタイン宣言」からの抜粋である。

[以下,史料本文]

 人類の直面する悲劇的状況のなかでわれわれは,科学者が一堂に会し,大量破壊兵器の開発の結果生じている危機のほどを見きわめ,ここにそえた草案の趣意における決議を審議すべきであると痛感する。〔中略〕
 水爆戦争において大都市が跡形もなくなるだろうことは疑いない。もっともこれは,直面せねばならない小さな災禍の一つにすぎない。かりにロンドン,ニューヨーク,モスクワの人々が全滅したとしても,世界は数世紀のうちに打撃から立ち直るのかもしれない。しかし,とりわけビキニ実験を経た今,われわれは核爆弾が想定をはるかに超えた広大な領域にわたって破壊を漸次拡大しうることを知っている。
 たしかな情報筋によれば,現在製造可能な爆弾は広島を破壊した*それの2500倍の威力をもつことが言明されている。そのような爆弾がかりに地表付近ないし水中で爆発すれば,放射性粒子が上空に舞い上がる。それは死の灰または雨となって徐々に降下し,地表面に達する。日本の漁師とその漁獲を汚染したのは,この灰塵にほかならない。〔中略〕
 ⑥軍備の全面的削減の一環として核兵器を放棄する協定は,最終的な解決をもたらしこそしないものの,ある重要な目的に寄与するであろう。第一に,およそ東西間の協定は,それが緊張の緩和に資するかぎり有益である。第二に,熱核兵器の廃棄は,相手方によるその誠実な履行が相互に信用されるかぎりにおいては,両陣営を目下神経質にしている真珠湾式奇襲への懸念を軽減するであろう。それゆえわれわれは,わずかな第一歩であろうとも,そのような協定を歓迎すべきである。〔中略〕

 決議

 われわれはこの⑦会議を呼びかけ,世界の科学者と一般大衆がそれを通じて以下の決議に賛同するよう請うものである。
 「今後のいかなる世界戦争でも核兵器がきっと使用されるであろうし,そのような兵器が人類の存続を脅かしている現実にかんがみ,われわれは世界の各国政府に対し,みずからの目的が世界戦争によっては推し進められないものと悟り,かつそれを公に認めるべきこと,したがってまた,相互間のあらゆる紛争事項の解決のためには平和的手段を模索すべきことを強く勧奨する。」

* 第二次世界大戦の終結間際に赤十字国際委員会により日本に派遣されたスイス人医師ジュノーは,1945年9月,戦後の占領統治に着手していたマッカーサーの許可を得たうえで,米軍から提供された15トンの医薬品と医療器材とともに原爆で廃墟と化した広島に入り,それらを被災地に配給する医療支援活動を行なった。

(出典:“The Russell-Einstein Manifesto,” in J. Rotblat, Scientists in the Quest for Peace: A History of the Pugwash Conferences, Cambridge: MIT Press, 1972. なお,一部を省略した。)

問1
 下線部①のコークは,アイルランドから多くの移民が旅立った港町である。凶作と飢饉のために生きていくのが困難になった人々は,海外に新天地を求めた。移民の一部は大西洋を渡り,アメリカに移住してコミュニティを形成し,しだいに社会的・政治的な影響力を高めていった。ジャガイモ飢饉の時期にアメリカに渡ったアイルランド系移民で,第二次世界大戦後,アイルランド系カトリック初のアメリカ大統領を出した家門の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②の蒸気機関は,鉱山採掘,繊維工業,交通機関に応用され,産業革命を支える大きな動力源になったことが知られている。新聞記事は,このような新しい科学技術を活用することによって,大規模な食料供給が可能になったことに着目している。この時期の蒸気機関に用いられた化石燃料の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③に関連して,イギリス政府は,国費による炊き出し所の運営に先立ち,アメリカからトウモロコシを緊急輸入してアイルランドに供給した。しかし,無償提供は自由貿易の原則に反するとして,トウモロコシの供給は,最初は原価で,のちに市場価格で行なわれた。同様に,この自由貿易の原則に則り,イギリス政府は1846年に穀物法を撤廃したため,アイルランドからの穀物輸出を助長し,かえって食糧不足を悪化させたと非難された。この自由貿易主義の理論的支柱を形成した経済学者で,『経済学及び課税の原理』(1819年)の著作で知られる人物の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④に関連して,他省への大量の移民は,しばしば移民受入先となった地域の社会に深刻な影響を及ぼした。清朝では,モンゴル,チベット,新疆等をある特殊な行政区域に区分し,自治を認めていたため,地域に固有の伝統的な生活様式がよく守られていた。しかし,清朝時代に人口増加に伴う移住が断続的に発生すると,北方のモンゴル人居住地域では南方から多くの農民が流入し,遊牧民が主体のモンゴル人居住地域に定住農耕が拡大するという事態を引き起こした。清朝が設置した,モンゴル,チベット,新疆等を含む行政区域の総称を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,災害は,ここでの土匪のように,困窮した人民を暴徒化させたが,中国では歴史上,このような暴徒の蜂起や反乱が,時の政権の転覆に至るケースがよく見られる。14世紀中期,相継ぐ水害と飢饉に苦しむ民衆が,マニ教や弥勒信仰等をもとにしたある宗教結社となって各地で反乱を起こした。これに加わり,やがて頭角を現した朱元璋は,ついには元朝の中国支配を終わらせ,明朝を誕生させた。新王朝の誕生を招いたこの反乱の名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,1963年にソ連,米国,英国は大気圏,宇宙空間および水中での核実験を禁止する部分的核実験禁止条約を締結した。もっとも同条約は,3ヵ国による核の独占であるとして後発核保有国フランスと当時核開発中の中国が調印を拒否したほか,地下核実験が除外されるなど,実効性は限定的であった。その後1968年,この時点で核をすでに保有する上記5ヵ国以外による核保有を禁止する条約が締結され,核保有国主導型の国際的核管理に一定の道筋がつけられた。英語でNPTと略称されるこの条約の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦の会議は,1957年にカナダのパグウォッシュ村で発足をみた。同会議は原子力利用のはらむ危険性,核兵器の管理問題,および科学者の社会的責任を議題とし,その後も回を重ね,核兵器廃絶をめざす世界的な運動の呼び水となった。この第1回パグウォッシュ会議には日本からも3名の物理学者が参加した。うち1名は日本人初のノーベル賞受賞者として知られ,「ラッセル・アインシュタイン宣言」にも署名人として名を連ねている。この物理学者の名を答えなさい。〔5点〕

問8
 史料〔A〕~〔B〕には,飢饉を経験した人々と社会の対応が,また史料〔C〕には,それまでは存在しなかった核エネルギーの軍事利用が起こしうる,破滅的な災害への対応が具体的に示されている。これらの歴史的事例に触れながら,災害に対する社会の対応がどのようなものであったのか,史料〔A〕~〔C〕の順に分析し,600字以内で論じなさい。
 その際,史料〔A〕~〔C〕だけでなく,各史料の解説文,出題者による注記,問1~7の設問の文章および解答をよく考慮し,必要に応じて論述に用いなさい。また,以下の語句を必ず使用し,使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔25点〕

移住   人道支援   政府   国際社会

〔2〕

 広大な太平洋上の島々とそれらを取り巻く海からなるオセアニアは,太平洋史の主舞台をなしてきた。わずかな陸地である島々に居住する人々は,豊富な海洋資源を活用し,また陸地での根菜農耕や樹木栽培を営みながら,カヌーなどの高い造船技術と巧みな航海術を用いて互いの島々を行き来し,交易をおこなってきた。しかし,15世紀に西欧世界によって「発見」されると,インド洋・東シナ海・太平洋での西欧諸国の海上覇権をめぐる争いに巻き込まれ,形成途上の世界システムに取り込まれていった。
 以下の文章は,世界から求められた資源の変遷から見た太平洋,とくにオセアニアの近代史について書かれたものである。この文章を読み,問に答えなさい。〔40点〕

 オセアニアは海の世界である。水半球とも称されるように、海が陸地を凌駕する環境にある。この広大な領域は地球全体のじつに5分の2を占めるが、陸地を構成する島嶼はオセアニア全体のわずか5%にすぎない。①オセアニアの歴史は海を媒介とし、あるいは海との交流を通じて成立した。〔中略〕
 ②白檀(びゃくだん)〔19世紀前半に、中国向けの交易品として集中的に伐採された〕は、オセアニアの港から直接ないしマニラ経由で広東に運ばれた。白檀交易とほぼ時期を同じくして1813年にフィジーで乾燥ナマコの生産が始められる。1824年には、マニラからのスペイン船がすでにフィジーで乾燥ナマコの生産が始められる。そして、煙で燻(いぶ)して乾燥ナマコをつくる製法が当時、マニラメンと呼ばれたフィリピン諸島出身の人々により伝えられるのが1827年のことである。③フィジーでは、アメリカ東海岸のセーラムからやってくるアメリカ船の船員とマニラからのスペイン船に乗船したマニラメンとの出会いが、太平洋のナマコ産業のブームが引き起こすことになったのである。
 ナマコの採取から加工にいたるプロセスには、多くの労働力とともに、煮沸・燻し・乾燥作業に大量の薪材を必要とした。たとえば、1ピクル(60キログラム)相当の乾燥ナマコを生産するのに約3.4立方メートル分の薪(およそ500キログラム)を要したという。
 生のナマコ、乾燥ナマコ、それに薪などを買い付ける際に、対価として現地社会に支払われたのはマスケット銃、拳銃、鉄斧などの武器・利器であった。その結果、大量の武器がフィジー社会に流入することになり、権力闘争を激化させることになった。ナマコの漁場をめぐる集団間のなわばり争いやナマコ燻製場の焼打ちなど、富をめぐる争いは熾烈を極めた。〔中略〕
 東南アジア全般でナマコ交易が盛んになる1860年代は、香料貿易が衰退する時代でもある。メラネシアにおける白檀交易の衰退とナマコ産業の勃興は、中国向けの資源が交代する転換期にあたる。ちなみにアーネムランドよりも東側のトレス海峡からグレートバリアリーフにいたる海域でナマコ漁が真珠貝採取とともに積極的におこなわれるのは、やはり1860年代以降のことである。
 アメリカ東海岸のナンタケットは17世紀中葉の入植以降、数百年にわたってアメリカ捕鯨の中心であった。当初、ニューイングランド沿岸で、のちに大西洋の北と南を含む広大な海域で捕鯨がおこなわれた。
 こうしたなかで、南米最南端のケープホーン経由で太平洋にイギリスの捕鯨船がはじめて進出するのは1789年のことである。ちょうど、クック船長がハワイで不遇の最期を迎えるのと同時期にあたる。太平洋では大型クジラからの鯨油を目的とした捕鯨がおこなわれた。これに刺激を受け、90年代にはアメリカのナンタケットからやはり同じルートで太平洋にはいった捕鯨船が南米チリ沖でマッコウクジラ漁に従事する。太平洋捕鯨の幕がこうして18世紀終末期に切って落とされる。
 一方、④本国のイギリスやアイルランドの囚人流刑地として1788年にオーストラリアへの入植が始まる。囚人の護送役にあたったのは捕鯨船であり、囚人をオーストラリアに降ろしてからは捕鯨船として活躍した。空の船倉には、鯨油の樽が満載されたのである。この時代、捕鯨船は囚人輸送以外にも太平洋の植民地へ補給物資や郵便物を運搬し、ときには探検や略奪をもおこなう多様な役割を担ったのである。
 太平洋における鯨油では、母港であるアメリカ東海岸ニューイングランドのナンタケットを起点とし、およそ2,3年にわたり太平洋各海域で捕鯨銛により捕獲したクジラの脂肪層を船上で煮て採油し、あるいはクジラのヒゲを持ち帰る移動型の遠洋捕鯨がおこなわれた。したがって、航海中の食料、燃料となる薪木、水などの補給が不可欠であり、ハワイ諸島、フィジーをはじめとする太平洋諸島は、捕鯨業の中継・補給のための基地として大切な役割をはたした。捕鯨基地がオセアニア社会との大きな経済的・社会的な交流の場となったことは想像に難くない。捕鯨船が現地から入手したものの見返りとして島社会はさまざまなものを手に入れた。とくにフィジーでは、捕鯨船のもたらすマッコウクジラの歯が政治や経済に大きな影響を与えた。〔中略〕
 マッコウクジラの歯は、王や首長の権威の象徴として使われた。鯨歯は王、首長階級の権威や威厳をあらわすとともに、紛争の調停、結婚の際の結納金、カヌーや家の新築における贈与税などとして使われた。鯨歯のペンダントが古くから用いられていたことは発掘によっても確かめられ、その範囲はタヒチ、マルケサス、イースター島を含むポリネシア全域におよんでいた。
 一方、捕鯨業は別の大きなインパクトを現地社会に与えた。捕鯨船の水夫のなかには、長くて辛い船上生活を避けて、島に残ろうとする者があらわれた。もともと捕鯨夫には囚人やならず者などが多く含まれており、捕鯨船からの逃亡はまさにヨーロッパ世界からの脱出を意味した。⑤こうした島々には、ビーチコマーと呼ばれる白人が居つくようになる。彼らは、捕鯨船の立ち寄るあらゆる島々でみられた。ならず者だからといって、島の風紀や社会生活上、好ましくない存在であったというわけでは必ずしもない。なかには、現地社会の紛争に積極的に参加し、手助けをする役割をはたした者もいた。
 捕鯨船に乗船していたのは、ビーチコマーの予備軍とならず者だけではなかった。太平洋における捕鯨開始当初から、捕鯨船はさまざまな民族の混成部隊を満載していた。初期の時代には北アメリカの先住民やアフリカ黒人がのちに太平洋地域ではとくにニュージーランドのマオリ人やハワイ人が乗組員として活躍した。また銛打ち要員としてバスク人は重要な役割をはたした。
 19世紀中葉になると、捕鯨船は西太平洋の海に姿をみせる。1818年に金華山沖で中国からアメリカに戻る商船がマッコウクジラの群れを発見したのが契機とされる。日本列島の太平洋岸に沿った豊かなクジラ資源の存在が知られると、アメリカ、イギリスの捕鯨船が殺到した。いわゆるジャパン・グラウンドと呼ばれる捕鯨場がそうであり、その最盛期は1840年代である。〔中略〕また日本の沿岸域で捕鯨がおこなわれていた結果、日本の沿岸捕鯨にも大きな影響を与えた。その一つが紀州太地(たいじ)の「背美(せみ)流れ」と呼ばれる海難事故につながる。1842年当時、沖合の欧米捕鯨の影響で不漁続きであった太地で、年の暮れにたまたま発見した親子セミクジラを捕獲しようと悪天候をついて出漁し、嵐のために大量の遭難犠牲者を出した歴史をさす。
 ⑥ジャパン・グラウンド発見の歴史的な影響は、日本の開国につながった。捕鯨船の補給基地として寄港を要求するアメリカの意向を受けてペリーが黒船で来航する(1852年)。現代の捕鯨をめぐる日米の対立を遡ること150年前、捕鯨国アメリカによる日本への要求が捕鯨の維持と持続につながる補給地の提供であったことは皮肉というほかはない。
 しかし、ほぼこれと同じ時期(1859年)、アメリカの西海岸で石油が発見され、また鉱山の開発が始まった。石油の発見は鯨油価格の下落をもたらし、鯨油産業に大きな痛手となった。また多くの捕鯨夫は捕鯨船がカリフォルニアに寄港すると船を下り、( ⑦ )の波に吸い込まれていった。捕鯨業の人手不足の要因も、鯨油獲得を目的とする西欧捕鯨業の凋落に拍車をかけたのである。

 (出典:秋道智彌「オセアニアの地域史」川田順造・大貫良夫編『地域の世界史4生態の地域史』山川出版社,2000年。なお、一部を省略し、また一部の表現を改めた。)

問1
 下線部①に関連して,高い航海技術をもつオセアニアの先住民たちは,生活の場である海(太平洋)を熟知していた。ただ世界史上,太平洋を「世界最大の海洋」として認識し,世界図に表したのはヨーロッパの航海者たちであった。例えば,ポルトガル人航海者マゼラン率いる艦隊は,香料諸島に至る西回り航路を開発する目的でスペインを出発し,すでにコロンブスが「発見」していたアメリカ大陸南端を回って,太平洋横断を果たした。これに対し,南米植民都市の総督であったあるスペイン人探検家は,黄金を求めてパナマ地峡を横断していくなかで,太平洋を「発見」した。この探検家の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,ヨーロッパの交易者は中国からオーストラリアに輸出されていたある商品に対する対価として,中国に輸出できる商品をオセアニアに求めた。そこで目をつけたものが,フィジーやハワイで発見された白檀であり,ナマコであった。島々から白檀やナマコを買い付ける商人たちは,現地住民に装飾品や金属製品を与え,これにより中国・オーストラリア交易を軸として,オセアニア一帯での,ヨーロッパ商人を中心とする交易が成立した。当時のオーストラリアが中国から大量に輸入していた商品作物は何か。その名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③に関連して,このナマコ加工を担ったのは,フィリピン群島から供出された労働者,マニラメンであった。マニラメンは,太平洋を横断するマニラ・ガレオン交易のスペイン船乗組員でもあり,なかには船から逃亡してアメリカに定住する者たちもいた。ルイジアナ州セントバーナード郡のセント・マロ村は,こうしたマニラメンによって設立されたが,この村民が1814~1815年のニューオリンズの戦いに参加していた記録がある。この戦いをふくむ,第2次独立戦争とも呼ばれる戦争の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④に関連して,1788年1月26日に,イギリスの囚人輸送の最初の船団がシドニー湾に到着した。これがイギリスによるオーストラリア植民の始まりとされる。イギリスがこの時期にオーストラリア植民を行なった理由について,歴史家の間にはさまざまな意見がある。1788年という時期と囚人の流刑地という点に着目した場合に,オーストラリア植民の理由として妥当な背景を30字以内で述べなさい。〔10点〕

問5
 下線部⑤「こうして島々には,ビーチコマーと呼ばれる白人が居つくようになる」に関連して,太平洋の航海では,ヨーロッパ各地やアメリカからやってくる捕鯨船が重要な役割を果たした。あるアメリカ人作家は,多額の借金から捕鯨船の乗組員となり,1841年に太平洋航海に出たが,脱走を繰り返し,マルケサス諸島やタヒチ島を転々としながらハワイに至った。1844年にアメリカに帰国した後,小説家となって,この太平洋捕鯨航海での経験を活かした作品を書いた。このアメリカ人作家の名とこの作品名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,日本では古くから独自の捕鯨が行なわれていたが,大々的な捕鯨は江戸時代,17世紀後半に始まり,幕末まで続いた。鯨の捕獲に始まり,解体,鯨油抽出,鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行なう,数千人規模の労働者が働く巨大な組織(鯨組(くじらぐみ))を擁する日本の古式捕鯨は,藩の支援を受けて大いに栄えた。こうした日本の捕鯨事情について欧米に情報を提供したドイツ人医師・博物学者で,長崎出島で医学を教授し,後に「日本学の祖」と評された人物の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 1848年,カリフォルニアで,ある鉱物資源の鉱脈が発見されたことで,翌年,アメリカに移民が殺到した。その3年後の1851年以降オーストラリアでも,ニューサウスウェールズやヴィクトリアで同じ鉱物資源が大量に発見された。その大半はイギリスをはじめ世界に流通し,オーストラリアには,イギリスだけでなく,アメリカや中国からも続々と一獲千金をもとめる移民が押し寄せた。この鉱物資源を求めて移民が押し寄せ,人口が激増する社会現象を何と呼ぶか。( ⑦ )に入るその名を答えなさい。〔5点〕

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