東京外国語大学 2010年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 1920年9月1日から9月8日にかけて,カスピ海に画した油田地帯の中心都市バクーにおいて,コミンテルン執行委員会の主催のもとに東洋(東方)諸民族大会が開催された。これは,イスラーム地域を中心とするアジア諸地域・諸民族の代表が一堂に会した国際会議としては世界史上初めての試みであった。参加した代表からは,民族・植民地問題をめぐって独自の問題提起が数多くなされた。しかし,ソヴィエト政権との政策的対立もあり,その後は開催されることなく,結局,これが最初にして最後の会議となった。
 次の文は,その大会宣言の抜粋である。これを読んで問に答えなさい。(60点)

 東洋諸民族へ(大会宣言)
                                      1920年9月4日
 東洋の諸民族よ!
 6年前,ヨーロッパで大規模な,恐るべき殺し合い-世界戦争が勃発して,3,500万の人を殺し,数百の都市と数千の村を破壊し,ヨーロッパのすべての国を荒廃させ,すべての民族を前代未聞の貧困と前例のない飢餓の苦難におとしいれた。
 この大規模な戦争は,これまではヨーロッパでおこなわれ,アジアとアフリカは部分的に巻きこまれたにすぎなかった。〔中略〕
 しかし,東洋諸国はこの大戦争の局外にとどまり,東洋の諸民族はごく少数しか参加しなかったとはいえ,にもかかわらず,この戦争は,ヨーロッパの諸国を獲得するため,西欧の諸国と諸民族を獲得するためにおこなわれたのではなく,東洋の諸国と諸民族を獲得するためにおこなわれたのである。
 戦争がおこなわれたのは,世界を分割するため,主としてアジアを分割し,東洋を分割するためであった。戦争がおこなわれたのは,アジア諸国をだれが支配するか,東洋の諸民族はだれの奴隷になるかを決めるためであった。戦争がおこなわれたのは,トルコ,ペルシア,エジプト,インドの農民と労働者を搾りあげるのはだれか,イギリスの資本家かドイツの資本家かを決めるためであった。
〔中略〕
 東洋の諸民族よ!イギリスが①インドでなにをしたか,諸君は知っている。インドの数億の農民・労働者の大衆を,イギリスがどれほど無権利な,物言わぬ家畜に変えたか,諸君は知っている。
 インドの農民は,自分の収穫のうち,手もとに残った分では数カ月も食いつなげないほど多くの部分を,イギリス政府に引きわたさなくてはならない。インドの労働者は,イギリス資本家の工場で,生きてゆくのに必要な日々の米さえ買えないほどのはした金で,働かなくてはならない。毎年,何百万というインド人が飢え死にしており,イギリスの資本家が自分の致富のためにくわだてる重労働で,ジャングルや沼沢地で命をおとしている。〔中略〕
 東洋の諸民族よ!イギリスがトルコにたいしてなにをしたか,諸君は知っている。イギリス人は,トルコ人だけしか住んでいないアナトリアの4分の3をその工業諸都市とともにイギリス,フランス,イタリア,ギリシアに割譲し,残りのトルコ領には,トルコ人が永久にイギリスの支払い能力のない債務者にとどまるような償金を課するという②講和条約をトルコに提議した。
 トルコ国民がこうした破滅的な講和条件を受け入れることを拒否すると,イギリス人は,イスラーム教徒の聖都コンスタンティノープルを占領し,トルコ国会を解散させ,人民の指導者をみな逮捕し,そのうちのすぐれた人々を銃殺し,残り数百人をマルタ島に流して,昔の要塞の暗いじめじめした地下牢に幽閉した。
〔中略〕
 東洋の諸民族よ!イギリスは③ペルシアにたいしてなにをしたか?王と地主にたいする農民蜂起を鎮圧し,数千のベルシア農民を銃殺し,絞首刑にしたイギリスの資本家は,打倒されたシヤーと地主の権力を立てなおし,農民が奪いとった地主の土地をまた農民から取り上げて,農民をふたたび農奴制的従属へつれもどし,農民をふたたび頁納民-封建領主の無権利な奴隷-にしてしまった。
〔中略〕
 東洋の諸民族よ!イギリスはメソポタミアとアラビアにたいしてなにをしたか?これらの独立のイスラーム諸国を,イギリスは,有無を言わせず自国の植民地と宣言し,昔からの所有者アラブ人をその土地から追いだし,④最も肥沃な一等地のティグリス川,ユーフラテス川流域を彼らから奪い,生活に不可欠な最良の牧地を奪い,モスルとバスラの豊富な油田を奪い,アラブ人からいっさいの生活の源泉を取り上げて,飢えにせまられて,やむをえず彼らの奴隷に,彼らの労働者になるようにしむけている。
 イギリスは⑤パレスチナにたいしてなにをしたか?そこでは,はじめユダヤ系イギリス資本家の意にそって,アラブ人を土地から追いだし,その土地をユダヤ人の移住者にあたえた。だが,あとになると,アラブ人の怒りをしずめようとして,自分らが移り住ませたユダヤ人移住者にアラブ人をけしかけ,こうしてすべての民族のあいだに不和と敵意と憎悪をひろめ,両者をともに弱めて,イギリス自身が思いのままに支配し命令できるようにした。
 イギリスは⑥エジプトにたいしてなにをしたか? そこでは,住民全体が,イギリス資本家の重いくびきのもとで――奴隷労働を使ってとほうもないピラミッドをつくったファラオたちのくびきよりも人民にとってもっと苦しい,もっと破滅的なくびきのもとで――,すでに80年も呻吟している。
 イギリスは中国にたいしてなにをしたか?この広大な国を,イギリスは,その共犯者,帝国主義日本とともに,自国の植民地に変えた。3億の民を搾取し,抑圧し,アへン中毒におとしいれつつ,イギリスは,自国の軍隊と日本軍隊を使って,中国で発酵しつつある革命を未曾有の残忍さで弾圧している。人民に打倒された古い専制者たちを復活させて,イギリスは,数億の民をもっとうまく搾取できるようにするため,彼らが自由を求めるのを許さず,彼らをこれまでどおり専制と抑圧と貧困のくびきのもとにつなぎとめておこうと,全力をつくしている。
 イギリスは⑦朝鮮にたいして,この花咲く国,千年の文化をもつ国にたいして,なにをしたか?イギリスは,朝鮮を日本帝国主義者の暴虐にゆだねた。いま日本帝国主義者は,火と剣を用いて朝鮮人民にイギリスと日本の資本家への服従を強いている。〔中略〕
 イギリスは,⑧アルメニアとグルジアでなにをしているか?そこでは,イギリスは,その金で農民・労働者大衆を,憎むべき金しだいのダシナク党とメンシェヴィキの諸政府のくびきのもとにつなぎとめており,これらの政府は,自国の人民にテロルと抑圧をくわえ,彼らをブルジョアジーのくびきから解放されたアゼルバイジャンとロシアの人民との闘争に駆りたてている。
 帝国主義イギリスは,⑨トルキスタン,ヒヴァ,ブパラ,アゼルバイジャン,ダゲスタンおよび北カフカースにさえ浸透をはかっており,その手先はいたるところをうろつきまわって,被抑圧人民の血と汗で得たイギリスの金を,買収のために借しげもなくばらまいている。彼らの努力は,いたるところで暴君と専制者,パンと地主を支持することにあり,始まりつつある革命運動とたたかうことにあり,すべての人民を是が非でも抑圧と零落,貧困と無知のなかにつなぎとめておくことにある。〔後略〕
  (村田陽一編訳『コミンテルン資料集』第1巻,大月書店,1978年。ただし表現の一部を改めた。文中の傍点は原文どおり。)

問1
 下線部①に関連して,1857年,インドで最初の大規模な反英抵抗運動が起こされた。最後には鎮圧され,その結果,ムガル帝国は滅亡し,イギリス政府による直接統治が開始されることとなった。この出来事の名を答えなさい。(5点)

問2
 下線部②に関連して,第一次世界大戦終結後,敗戦国オスマン朝政府と連合国との間で1920年に結ばれた条約,および,これを不満とするケマル・パシャ率いるトルコ大国民議会政府と連合国との間で1923年に締結された条約の名を答えなさい。(5点)

問3
 下線部③に関連して,ガージャール(カージヤール)王朝政府がイギリス人投機業者に供与した利権をめぐって,1891年には,外国の支配・干渉に反対するイランで最初の大規模な大衆運動が起こされた。その運動の名を答えなさい。(5点)

問4
 下線部④に関連して,この地は,第一次世界大戦後,国際法上イギリスの委任統治領とされたが,1932年に王国として独立した。その国の名を答えなさい。(5点)

問5
 下線部⑤に関連して,1947年に出された国連によるアラブ国家とユダヤ国家への分割案に対して,この地のユダヤ人は1948年にはイスラエルの建国を宣言し,これを承認しないアラブ諸国との間で戦争が勃発した。その結果,多くの難民(パレスチナ難民)を出すこととなった。この戦争の名を答えなさい。(5点)

問6
 下線部⑥に関連して,エジプトに対する外国の支配・干渉に反対して,1881~82年に武装蜂起が起こされた。その指導者の名を答えなさい。(5点)

問7
 下線部⑦に関連して,1919年に,朝鮮半島の人々が日本の支配からの独立を求めて起こした運動の名を答えなさい。(5点)

問8
 下線部⑧について,アルメニア(エレヴァン地方)は,ガージャール(カージャール)朝イランとロシアとの戦争(1826~28年)の結果,ロシアに併合された。それを取り決めた条約の名を答えなさい。(5点)

問9
 下線部⑨はいずれも,19世紀末までにロシア帝国の領土に編入された地域である。ロシア帝国を「諸民族の牢獄」と規定したレーニンは,民族自決を革命後の基本理念の一つとした。これにより旧ロシア帝国の飯土は再編成され,アジアの民族解放運動にも影響を及ぼすが,国際情勢の変化の中でボリシェヴィキは路線を転換する。以上の経過を400字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(20点)

平和に関する布告  無賠償・無併合・民族自決  ザカフカース
ソヴィエト社会主義共和国連邦  第1次国共合作  バルト3国併合

〔2〕

 次の文章は,フランス第五共和政の初代大統領を務めたドゴール(1890~1970)が,1969年に退陣した後に執筆した回顧録の抜粋である。これを読んで問に答えなさい。(40点)

 戦争は国家を誕生させ,また死滅させる。そしてその間も絶えず国家の生存を脅かしている。①フランス人の場合,1815年から1870年の間における国民生活,政治体制,国際的地位は,フランス革命に対し欧州諸国を結束させた敵対的な同盟によって,ナポレオンの輝かしい勝利とこれに続く敗北によって,要するにこれら数多くの戦いの結果結ばれたわが国に不利な諸条約によって決定された
 これに続く「武力による平和」の44年間,フランスの対内,対外行動を律したのは,敗戦であり,これを埋合わせようとの盲目的な欲求であり,統一ドイツにより再び敗北を喫するのではないかとの恐れであった。第一次世界大戦に際しては,国民の多大な努力により,フランスは再生のきっかけをつかむことができた。だがフランス人は,軍事的勝利の結果を徹底的に追求することを怠り,わが国を工業化し,これにより膨大な物的,人的損失をつぐなうよすがともなりえた賠償を放棄した挙句,受動的な政治と軍略に閉じこもり,欧州をヒトラーの野望にゆだねたのであった。こうしてフランスはみずから再生の道を閉ざしてしまった。今次大戦で滅亡の危機に瀕したフランス国民は,今日では,いかなる与件のもとでその歩みと行動を決定することができるのであろうか。
 第一の与件は,いずれにせよ結局フランスが生存しており,主権を保ち,勝者となったことである。まさしく,それは奇跡であった。実際,フランスはまず空前の敗北をなめ,自国政府までが敵の統治下に服するのを見,今次大戦最大の二つの戦闘により国土は荒廃し,その間,侵略者による長期の搾取を経験し,②無為と屈辱の上に築かれた権力によって心底から屈従を強いられたのである。フランスがこうして受けた心身の痛手から立ち直ることは二度とあるまいと,どれほど多数の者が信じたことか。これほどの崩壊を経ては,後日,フランス解放がありうるとしても,それは外国に負うほかはなく,解放によって生ずることについても,内外両面にわたり外国が決定するところになろうと,どれほど多数の者が確信したことか。フランスの抵抗運動がほぼ全面的に鳴りをひそめた時期に,③いつかは敵がフランスおよび連合国に降伏しようと考えることは馬鹿げた夢に過ぎないと,どれほど多数の者が一笑に付したことか。それにもかかわらず,ついにフランスは国境と国家の統一をいささかも損うことなく悲境から脱し,自決し,戦勝国の一員となった。ゆえに,現在ではフランスが望むままの存在となり,欲するままに振舞うことを,いかなる国も妨げることはできぬ。
〔中略〕
 もっとも,フランスが常に危険にさらされているという宿命から脱した反面,全世界は,全面紛争がいつ起るかとの強迫観念に絶えず取りつかれることとなった。④その巨大さにおいてかつての列強をしのぐアメリカとソ連という二つの帝国が持てる力と覇権とイデオロギーを闘わせているのである。⑤両国は全世界を一瞬にして吹き飛ばすことのできる核兵器を保有し,それぞれの陣営の押しも押されぬ保護者にのし上がった。この危険な均衡が絶対的な緊張緩和へと向かわぬかぎり,いつか常軌を逸した戦争となって爆発する恐れがある
〔中略〕
 フランスは,可能性を秘めた運命を持ちながらも現存する支配勢力のいずれにも従属することを拒否する多くの民族から,広範な関心と信任を寄せられている。膨大な人口と資源に恵まれた中国の前途はまさに洋々たるものがある。日本は経済を手はじめに,日本ならではの世界的役割を果たす能力を再び身につけつつある。インドは現在,その規模を維持すべく食糧問題に忙殺されているとはいえ,いつかは外へ向かうときがやって来よう。アフリカ,アジア,ラテンアメリカの数多くの新旧国家は,自国を急速に開発する必要に迫られて東西両陣営の一方または双方から援助を受けてはいるが,いずれか一方に加担することに反発し,今日ではむしろフランスに目を注いでいる。⑥恐らく,フランスが植民地解放をなし遂げない限り,これら諸国からの執拗な批判は跡を断たないであろう。だがフランスが旧領土を解放すれば,こうした批判は静まるであろう。フランスが世界の願望にこたえ,万人の尊厳と進歩という普遍的な価値に仕えるべく,すでに世界の大半の地で潜在的に認められつつあるフランスの魅力と威信,そしてフランスに対する尊敬を現実のものとすることができるかいなかは,一にフランス次第なのである。
 こうしてフランスは過去二世紀このかた,その力と富のいく分かを失ったにもかかわらず,今次大戦がもたらした恐るべき危機のさなかに祖国の救済を可能にしたあの同じ運命により,第一級の国際的役割を与えられることとなった。この役割こそフランスの天与の才に適合し,国益に合致し,その力と均衡したものであった。この役割をフランスに演じさせようと決意してはならぬいわれがあろうか。まして,私の見るかぎり,フランスが無秩序と衰退に堕さぬために不可欠な自己改革の努力を行い,政治的安定と社会的進歩を図ろうとするのであれば,フランスはその歴史において今いちど世界的責任を担う立場に置かれているという自覚を持つことが求められているのである。以上が私の哲学である。外からフランスに提起された実際的問題を前にして,私の政治は,どのようなものとなっていくであろうか。
 われわれ以外に解決の手をくだせぬ( ⑦ )をはじめ植民地問題を別にすれば,これらの問題の及ぶところは広く遠く,ある日ふたたび戦争が起り,各地域で戦争そのものが行き詰らせていた局面を一挙に打開するような事態にでもならぬかぎり,その解決には長期の取組みが必要である。つまり,これらの問題をめぐるフランスの行動は,動揺してやまぬかつての意思薄弱な態度とは逆に首尾一貫したものでなければならず,それは新しい制度のもとではじめて可能となるのである。
 (シャルル・ドゴール,朝日新聞外報部訳『希望の回想 第一部「再生」』朝日新聞社,1971年。ただし,表現の一部を改めた。)

問1
 下線部①に関連して,ナポレオンの敗北後に形成されたヨーロッパの国際秩序について,100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(10点)

 神聖同盟 メッテルニヒ  ウィーン会議 正統主義

問2
 下線部②「無為と屈辱の上に築かれた権力」は,ナチス・ドイツに協力した南フランスの健偏政権のことを言う。この政府が置かれたフランスの都市の名を答えなさい。(5点)

問3
 下線部③に関連して,連合国が戦争遂行の基本方針や戦後処理の問題などについて話し合うために,1943年11月から12月にかけて相次いで開いた二つの首脳会談の名を答えなさい。(5点)

問4
 下線部④に関連して,アメリカを中心にして結成された軍事機構の名とソ連を中心にして結成された軍事機構の名を答えなさい。(5点)

問5
 下線部⑤に関連して,ソ連のミサイル基地建設計画をきっかけにして,米ソの核戦争が現実に迫った事件の名を答えなさい。(5点)

問6
 下線部⑥に関連して,フランスの植民地であったベトナムでは,1945年9月に独立を宣言したベトナム民主共和国と旧宗主国フランスとの間で戦争(インドシナ戦争)が勃発した。その終結のきっかけとなりフランス軍が敗北を喫した戦闘の行われたベトナム北西部の町の名を答えなさい。(5点)

問7
 空欄( ⑦ )には,ある旧フランス植民地の名が入る。その植民地(フランス本国からは准海外県の扱いを受けていた)では,フランス人入植者を中心に独立反対の動きが強く,これに対抗する形で反仏独立運動が激化した。その結果生じた政治危機をしずめるために,フランス本国では政治体制がかわり,ドゴール政権が誕生した。その旧フランス植民地の名を答えなさい。(5点)

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