大阪大学 2020年度 世界史過去問

世界史

Ⅱ ある高校の生徒たちが、2年生の秋の海外実習でベトナムの首都ハノイを訪れ、ベトナム独立の父とされるホー・チ・ミンの廟(びょう)を見学した。生徒たちのうちAさんからDさんまでの4人は、そのときの経験が忘れられず、実習の詳しいレポートを作成しただけでなく、大学進学後にもそれぞれ、ベトナムと世界の歴史を研究している。これについて、下の問い(問1~問7)に答えよ。なお個々の問いは完全に独立してはいない。ある問いを考えるのに別の問いの情報が役立つことがありうる。

問1
 生徒たちは最初に、同じ高校出身の先輩で大学院生のPさんに手伝ってもらいながら、実習レポートを書くためにホー・チ・ミンの生涯を調べ、関連する世界の動きも加筆して、下のような年表を作った(資料イ)。年表中の空欄[ ア ]~[ ウ ]に補うべき適切な語句を、解答欄にそれぞれ記入せよ。

資料イ ホー・チ・ミンの生涯と世界の動き

1890年ごろ 北中部のゲアン省で生まれる(本名グエン・タッ・タイン)。父は科挙試験に合格しフランスの保護国だった阮朝の官僚となる。タインは父とともに首都フエに行き、そこの小中学校で学ぶ。
1911年 フランス船で出国、米英仏などで働きながら学ぶ。
1914~18年 第一次世界大戦
1919年 ヴェルサイユ講和会議に、グエン・アイクオック(阮愛国)の名前で、ベトナム独立を求める「アンナン人の要求」を提出。フランス社会党に加入。
1920年 フランス共産党創立大会に参加。2年後にソ連にわたり、社会主義の理論・運動方法を学び、世界の共産党の指導機関である[ ア ]の活動家として、アジア各地で活動。
1924年 孫文が建てた広東政府を援助するソ連のボロディン使節団に加わり、広州・香港を中心に活動。翌年香港でベトナム青年革命会を結成。
1930年 香港でベトナム共産党結成(すぐにカンボジア・ラオスを含むインドシナ共産党に改組されるが、1951年に分離してベトナム労働党、1976年にベトナム共産党となる)。
1939~45年 第二次世界大戦(41~45年アジア太平洋戦争)
1940年 日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐(翌年、南部にも進駐)。
1941年 ベトナムに戻り、日本に抵抗するために、多くの階層・組織を含むベトミンを結成。中国の国民党政権の支援を得ようとする。その際、中国向けにホー・チ・ミン(胡志明)と名乗り、それが定着。
1945年 日本の降伏直後に全土を掌握して9月2日に独立を宣言し、ベトナム民主共和国臨時政府を樹立(ベトナム8月革命)。阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎える(バオダイはのちフランスの働きかけで離脱し、「ベトナム国」元首となる)。翌年、総選挙を経て正式の政府をつくり国家主席となるが、独立を認めないフランスとの戦争(インドシナ戦争)が始まる。
1949年 中華人民共和国が成立。
1954年 ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスがインドシナからの撤退を決め、[ イ ]停戦協定で暫定的にベトナムは南北に分けられる(ベトナム民主共和国は北部を支配。南部はバオダイのベトナム国)。
1955年 アメリカがバオダイに代えてゴー・ディン・ジエムを立て、南部にベトナム共和国を樹立、南北分断が固定化。
1960年 ベトナム共和国(南ベトナム)で、共産党以外の諸勢力も巻き込んで、ジエム政権に反対する[ ウ ]が結成され、ゲリラ闘争を開始。これを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)では計画経済開始。
1963年 中ソ対立が激化し公開論争が行われる。
1965年 アメリカが北ベトナム爆撃の一方で南ベトナムに直接派兵し、ベトナム戦争が始まる。(~75年)。
1969年 9月2日に国家主席のままハノイで死去(レー・ズアンらによる集団指導体制で戦争継続)。遺体はハノイのホー・チ・ミン廟に保存される。

問2
 Aさんは大学入学後、政治リーダーについてのレポートを書くことになった。そこで年表作成の際に読んだホー・チ・ミンの伝記を思い出し、ソ連で学んで社会主義革命を起こそうとしたリーダーについて想像されるのとは違った、民主主義的な行動が見られることに気づいた。さらにホー・チ・ミンが起草した独立宣言(資料ロ)を読んだところ、冒頭に資本主義国であるアメリカとフランスの宣言が引用されているので、Aさんはさらに驚いた。中略部分も含めて、フランスの植民地支配への批判はあるが、資本主義そのものを批判した言葉は見つからない。

資料ロ ベトナム民主共和国独立宣言

 国中の同胞たちよ。
 「すべての人間は平等の権利をもって生まれてくる。造物主*は人々に、だれも犯すことのできない権利を与えている。その諸権利のなかには、生きる権利、自由の権利と幸福追求の権利が含まれる」
 この不朽の言葉は、1776年の「アメリカ独立宣言」のなかにあるものだ。広く考えるとこの文は、世界の各民族はすべて平等に生まれ、どの民族も生きる権利、幸福の権利と自由の権利をもつことを意味する。
 1791年のフランス革命の「人権と市民権に関する宣言」もやはり言っている。
 「人は権利において自由かつ平等に生まれ、そしてつねに、権利において自由かつ平等であらねばならない」と。
 それは、だれも争うことのできない道理なのである。
 にもかかわらず、この80年以上というもの、フランス植民地主義者たちは、自由・平等・博愛の旗印を利用して、わが国土を奪いわが同胞を圧迫してきた。かれらの行動は、人道と正義にまったく反している。
 (中略)
 われわれは、テヘランとサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合諸国が、ベトナム人民の独立の権利を認めないわけは決してないと信じる。
 この80年以上にわたってフランスの奴隷のくびきに勇敢に抵抗してきた民族、この数年は連合国側に立ってファシストに勇敢に抵抗してきた民族、この民族は自由を得なければならない。この民族は独立を得なければならない。
 この道理にもとづき、われわれベトナム民主共和国臨時政府は、世界に対しておごそかに宣言する。
 ベトナムの国は自由と独立を享受する権利をもち、事実、すでに自由で独立した国になっている。すべてのベトナム民族は、あらゆる心と力、命と財産をもって、この自由と独立の権利を守るであろう。

*造物主 天地を創造したキリスト教の神のこと。

 そこで政治思想の研究を目指しているBさんに相談したところ、Bさんは、第一に「もともと社会主義思想は、ブルジョワジーによる革命が掲げた自由や平等の理想自体は肯定していること」、第二に「ロシア革命後の社会主義国や共産党内部でも、自由主義や社会民主主義を排斥する動きがある一方で、帝国主義やファシズムとたたかうために、社会主義革命を将来の課題として棚上げし、『ブルジョワ民主主義』や民族解放運動を含めた幅広い勢力と提携したりこれを支援しようとする動きがあったこと」、第三に「社会主義陣営が衰退する1980年代より前は、民族解放の道として社会主義に親近感をもつ植民地や新興国のリーダーが少なくなかったこと」などの点を指摘した。そこで、ソ連が連合国に加わった第二次世界大戦の直後にホー・チ・ミンが発表した独立宣言も、こうした提携の戦略によるブルジョワジーやナショナリストの理想への歩み寄りがあったのではないかと考えたAさんは、独立宣言に至るホー・チ・ミンの歩みに影響を与えた可能性があるできごと、資本主義国とも提携する戦略がその後に変更を余儀なくされたできごとなどを、年表(資料イ)に補足することにした。その際に補足した下の3つの年の記述の空欄[ X ] [ Y ] [ Z ]に入る適当なできごとを、解答欄にそれぞれ記入せよ。

 1935年 [ ア ]が[ X ]を提唱。

 1937年 [ Y ]が始まり、中国側で第二次国共合作が具体化。

 1946年 米ソ両陣営の[ Z ]が表面化

問3
 Aさん・Bさんが、ホー・チ・ミンがもつ社会主義者(共産主義者)と民族主義者(ナショナリスト)の二面性について、さらに掘り下げたいと希望したので、大学院生のPさんは、ホー・チ・ミンが死去した直後に公表された遺言も読むように勧めた。2人は遺言の文章を細かく区切り、社会主義的な内容、民族主義的な内容、両方にまたがる内容のどれに分類できるかを考察した。下のア~オはその一部である。かれが最後まで純粋な社会主義者でありつづけたと考える場合に、この中のどれが根拠にできるだろうか。社会主義者でなければ言わないことがらち社会主義者以外でも言いそうなことがらの区別や、かれが没した当時の社会主義諸国の動きにも注意しながら、適切と考えられるものを二つ選んで解答欄に記号を記入せよ。

ア わたしがカール・マルクスやレーニンおよびその他の先輩革命家に会いに行くようなことになったとき、全国の同胞、党内の同志、各地の友人たちみんなが、思いがけないことと感じないように、ここにいくつかのことを書き残しておく。
イ わが同胞は、なお多くの財産・生命を犠牲にしなければならないかもしれない。それでも(中略)山はある、川はある、人はいる。アメリカに勝ったらいまの十倍美しく再建しよう!
ウ アメリカ帝国主義は必ずわが国から撤退しなければならなくなるだろう。わが祖国は必ず統一されるだろう。南と北の同胞は必ず一家につどうだろう。
エ わが国は一小国ながら、フランス、アメリカという二つの大帝国主義国に英雄的にうちかち、民族解放運動の名に恥じない貢献をしたという、大きな栄誉をになうことになるだろう。
オ わたしは、兄弟諸党、兄弟諸国が必ず団結を取り戻すと、かたく信じている。

問4
 ホー・チ・ミンは終始一貫して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義者であったのだと考える場合、問1~3の資料や情報から、どのような根拠をあげることができるだろうか。三つ以上の根拠をあげて、200字程度で説明せよ。通所の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意すること。

問5
 Aさんは大学でヨーロッパの思想や学術を研究しているCさんにも相談した。そこでホー・チ・ミンの独立宣言を読んだCさんは、違和感をいだいた。アメリカ独立革命やフランス革命など「環太平洋革命」が目ざしたのは、個人の自由と、自由な個人の選択の結果としての社会契約によって形成され国民の意思で変更可能な国家だと習っていたのに対し、ホー・チ・ミンが用いた民族という漢語には、言語や文化を共有し、個人の選択を超越した変更不可能なまとまりというニュアンスが感じられるからである。Cさんはそこで、入学後に聞いた講義の内容を思い出した。変更不可能な集団としての民族が自然に持つ権利という思想は、19世紀半ばの中欧・東欧あたりで最初に強く主張され、第一次世界大戦後に民族自決権が広く認められたのと並行して世界に広がったものだ、という内容だった。Cさんが「環太平洋革命」と同じ18世紀末から、19世紀半ばにかけての中欧・東欧の政治情勢を整理することにしたので、Pさんは、次の3枚のカードに、教科書から関連事項を書き抜くようにアドバイスした。

カード1:この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国、帝国形成に向かいつつあった国家(できたのはどんな国家?)
カード2:それらの諸国に支配されていた国家や民族
カード3:ナポレオン戦争のインパクト、1815年および1848年の変化

 そこであなたがCさんならば、18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて、どのように説明するか。カード1からカード3の内容にふれながら300字程度で述べよ。なお、会議や条約の名前、各民族内部の主導権をめぐる対立などは、書く必要がない。

問6
 Dさんは、ベトナムの指導者たちの歴史認識というテーマで大学での研究を進めている。まず日本語訳されているベトナムの歴史教科書を図書館で読んだところ、近代以前のベトナムも外国の支配や侵略とたびたび戦ってきた点が強調され、外国を撃退した王朝が高く評価されている一方で、フランスに屈した阮朝は、低い評価をされていることに、強い印象を受けた。次に日本人が書いたベトナム史の入門書も読んでみると、阮朝については歴史学界でも、肯定的な見方と否定的な見方の対立があることがわかった。将来はベトナム留学もしてベトナム史を研究したいと考えているDさんは、阮朝について、どこでどう調べると、どんな結果になりそうかについて予想し、下のような複数の仮説を立てた。そのうち明らかに事実誤認を含む仮説を一つ選んで、解答欄に記号を記入せよ。

ア 首都だったフエで阮朝王室の子孫にインタビューすると、南北ベトナムを統一した阮朝について、肯定的な意見が聞けるだろう。
イ 南部のホーチミン市でベトナム共和国時代の教科書を調べたら、阮氏が南部に領土を広げたことなどについて、肯定的な評価がされているだろう。
ウ 北部のハノイで出版されている学者の論文を読んだら、タイソン反乱と戦う過程でシャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受けるなど、「売国的」なやりかたで王朝を立てた阮朝の行動が非難されているだろう。
エ 山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫から守ってくれなかった阮朝に対する否定的な評価が出てくるだろう。

問7
 先輩のPさんから、たとえば明治維新期の日本のリーダーなども参考にするように言われ、明治維新が「富国強兵」による近代国家の建設と、「王政復古」で「神武*創業」に戻るという、二重の主張をしていたことに気づいたDさんは、「近代国家を作ろうとしたリーダーたちは、必ず直前の時代や政権を否定するが、近代化によって前の時代を超えようとするだけでなく、もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどころを求める」というパターンがあるのではないかと考えた。Dさんはそこで、過去の歴史や宗教の栄光を強調したり、その復興を主張した近現代の政治運動の例を探したところ、世界のあちこちでこのパターンが見られることがわかった。下のカードには、Dさんがメモした事項が書かれている。

*神武は建国神話上の初代天皇を指す。

サウジアラビア建国やイラン革命とイスラーム

ガンディーのインド独立運動とヒンドゥー教

イスラエル建国と古代ユダヤ人の宗教・国家

 このカードの例から一つの国を選んで、カードに書かれた近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について、250字程度で論述せよ。

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