東京大学 2020年度 世界史過去問

世界史

第1問

 国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り組んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
 以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A~Cを読んで、例えば、「○○は××だった(史料A)。」や「史料Bに記されているように、○○が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例としてそれぞれ必ず一度は用いなさい。

薩摩   下関条約   小中華
条約   清仏戦争   朝貢

史料A
 なぜ、(私は)今なお崇禎(すうてい)という年号を使うのか。清(しん)人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

史料B
 1875年から1878年までの間においても、わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

史料C
 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。

第2問

 異なる文化に属する人々の移動や接触が活発になることは、より多様性のある豊かな文化を生む一方で、民族の対立や衝突に結びつくこともあった。民族の対立や共存に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

問(1)
 大陸に位置する中国では、古くからさまざまな文化をもつ人々の間の交流がさかんであり、民族を固有のものとする意識は強くなかった。しかし、近代に入ると、中国でも日本や欧米列強との対抗を通じて民族意識が強まっていった。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)
 漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について、2行以内で記しなさい。

(b)
 清末には、漢民族自立の気運がおこる一方で、清朝の下にあったモンゴルやチベットでも独立の気運が高まった。辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて、3行以内で記しなさい。

問(2)
 近代に入ると、西洋列強の進出によって、さまざまな形の植民地支配が広がった。その下では、多様な差別や搾取があり、それに対する抵抗があった。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)
 図版は、19世紀後半の世界の一体化を進める画期となった一大工事を描いたものである。その施設を含む地域は、1922年に王国として独立した。どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを、4行以内で記しなさい。

(b)
 オーストラリアは、ヨーロッパから最も遠く離れた植民地の一つであった。現在では多民族主義・多文化主義の国であるが、1970年代までは白人中心主義がとられてきた。ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを、2行以内で記しなさい。

問(3)
 移民の国と言われるアメリカ合衆国では、移民社会特有の文化や社会的多様性が生まれたが、同時に、移民はしばしば排斥の対象ともなった。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)
 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要を、3行以内で記しなさい。

(b)
 アメリカ合衆国は、戦争による領土の拡大や併合によっても多様な住民を抱えることになった。このうち、1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯について、2行以内で記しなさい。

第3問

 人間は言語を用いることによってその時代や地域に応じた思想を生み出し、またその思想は、人間ないし人間集団のあり方を変化させる原動力ともなった。このことに関連する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

問(1)
 古代ギリシアの都市国家では、前7世紀に入ると、経済的格差や参政権の不平等といった問題があらわになりはじめた。ギリシア七賢人の一人に数えられ、前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者に選ばれて、さまざまな社会的・政治的改革を断行した思想家の名を記しなさい。

問(2)
 このしそう集団は孔子を開祖とする学派を批判し、人をその身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える一方で、指導者に対して絶対的服従を強いる結束の固い組織でもあった。この集団は秦漢時代以降消え去り、清代以後その思想が見直された。この思想集団の名を記しなさい。

問(3)
 キリスト教徒によるレコンキスタの結果、イスラーム教勢力は1492年までにイベリア半島から駆逐された。その過程で、8世紀後半に建造された大モスクが、13世紀にキリスト教の大聖堂に転用された。この建造物が残り、後ウマイヤ朝の首都として知られる、イベリア半島の都市の名を記しなさい。

問(4)
 10世紀頃から、イスラーム教が普及した地域では、修行などによって神との一体感を求めようとする神秘主義教団が生まれ、民衆の支持を獲得した。その過程で、神秘主義を理論化し、スンナ派の神学大系の中に位置づけるなど、神秘主義の発展に貢献したことで知られる、セルジューク朝時代に活躍したスンナ派学者の名を記しなさい。

問(5)
 華北では金代になると、道教におけるそれまでの主流を批判して道教の革新をはかり、儒・仏・道の三教の融合をめざす教団が成立した。これは華北を中心に勢力を広げ、モンゴルのフビライの保護を受けるなどして、後の時代まで道教を二分する教団の一つとなった。この教団の名を記しなさい。

問(6)
 アラビア半島で誕生したイスラーム教は西アフリカまで広がり、13世紀以降には、ムスリムを支配者とするマリ王国やソンガイ王国などが成立し、金などの交易で繁栄した。両王国の時代の中心的都市として知られ、交易の中心地としてだけでなく、学術の中心地としても栄えたニジェール川中流域の都市の名を記しなさい。

問(7)
 清代に入ると、宋から明の学問の主流を批判し、訓詁学・文字学・音韻学などを重視し、精密な文献批判によって古典を研究する学問がさかんになった。この学問は、日本を含む近代以降の漢字文化圏における文献研究の基盤をも形成した。この学問の名を記しなさい。

問(8)
 19世紀半ば頃イランでは、イスラーム教シーア派から派生した宗教が生まれ、農民や商人の間に広まった。この宗教の信徒たちは1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名を記しなさい。

問(9)
 アダム=スミスにはじまる古典派経済学は19世紀に発展し、経済理論を探究した。主著『人口論』で、食料生産が算術級数的にしか増えないのに対し、人口は幾何級数的に増えることを指摘して、人口抑制の必要を主張した古典派経済学者の名を記しなさい。

問(10)
 19世紀から20世紀への転換期には、人間の精神のあり方について、それまでの通年を根本的にくつがえすような思想が現れた。意識の表層の下に巨大な無意識の深層が隠れていると考え、夢の分析を精神治療に初めて取り入れたオーストリアの精神医学者の名を記しなさい。

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