東京外国語大学 2016年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 世界の一体化,地域世界間のグローバルな交流を考えるうえで,世界各地に派遣された宣教師(ミッショナリー)の活動は,「信仰の伝播」という本来の目的をこえて,政治,経済,外交,文化交流といった様々な面で,きわめて重要な役割をはたしてきた。
 次の〔A〕~〔C〕の文章は,中国に派遣されたイエズス会宣教師が残した書簡からの抜粋である。これらの史料をよく読んで,以下の問に答えなさい。〔60点〕

〔A〕
 イエズス会の宣教師ド・プレマール師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1699年2月17日,広東にて)
 (前段の内容:筆者が乗る船は,喜望峰を出発した後,スマトラ島南部のスンダ海峡を抜けてバタヴィアに到着する予定だったが,針路を誤ったためスマトラ島北部のアチェに立ち寄らざるを得なくなった)

 アチェン港〔スマトラ島北部,現在のアチェ〕の位置はすばらしいもので,碇泊地は非常に優れたものであり,全海岸の航行が至極安全です。港は周囲を取り囲まれていまして,その一方はスマトラの陸地が,他の側は二つまたは三つの島々が囲んでいます。これらの島々の間にはそれぞれマラッカ,ベンガル,スラトへ通じる瀬戸ないし水道が開いています。〔中略〕
 ①マラッカ市はアチェンから約150リュー〔1リュー=約4㎞〕離れています。ここでもアチェンで見られるのと同じ楽しみが得られます。当地にも緑がふんだんにありますし,景色は牧歌的ですが,家屋はこちらの方が立派です。諸民族がずっと多く集まっていますし,貿易もより盛んですし,ヨーロッパ人の数もより多いのです。また人工が自然をかくすまでには至っていませんが,アチェンほど構われないままではありません。市は,満潮時に海と結合して砦を孤立したものにさせる一つの河によって要塞と隔てられています。この要塞はサン・マロ市と同じくらいの大きさで,その場内に一つの岡があり,この岡の上に聖フランシスコ・シャヴィエルが盛んに説教をおこなった我が会の聖パウロ教会の残骸がいまでも認められます。駐屯部隊215名の兵と6名の士官だけです。多くの者がカトリック信者です。全員がヨーロッパの諸国から集められた者たちです。・・・マラッカの果物はおいしくて,あらゆる種類のものがあります。イスラーム教徒用のモスクと中国の偶像に捧げられた寺院があります。要するにオランダ人によってあらゆる種類の宗派の礼拝行事がここでは許されているのですが,真の宗教(カトリック教)だけは追放されているのです。カトリック教徒はミサ聖祭を祝うためには森の茂みの奥深く入りこまなくてはならないのです。〔中略〕
 ②これは上川島(じょうせんとう)で,聖フランシスコ・シャヴィエルはわれわれを御自分の墓から一日程のところへお導きくださったのです。はじめの何日間かは人々は自分たちがどこにいるのか知らなかったのです。そして人々はわれわれイエズス会士が信仰心を満足させるため,われわれがおこなった誓いを果たすために,この栄誉ある墓に参った後になってやっとわれわれの言うことを信じました。われわれは10月9日木曜日に,この聖なる巡礼に出発しました。海と陸とを合わせてたっぷり4リューを進んだのち,われわれは突然探していた場所に出ました。われわれは相当大きな石が立っているのを認めました。われわれは「ここに聖フランシスコ・シャヴィエルが埋葬された」という3.4語からなるポルトガル語をなんとか読み取るやいなや,いくどもこの聖なる土地に接吻しました。ある者たちはそこで涙をぬらしました。私はあまりにも強い,あまりにも嬉しい思いで一杯になってしまったので,15分間以上もうっとりしてしまって,この自分の気持をかみしめること以外にはなにも考えられませんでした。〔中略〕
 ③北京朝廷のニュースについては,( a )師が広東に到着した後に受け取った書簡によって,皇帝はこれまでになかったほど御機嫌麗しくあらせられること,これまでになかったほど赫々(かくかく)たる栄誉に輝いておられること,これまでになかったほど臣下からたたえられていることを知りました。④皇帝は大部隊を親率されて西韃靼にお出かけになり,500リュー四方に恐怖の念をお広げになり,彼の二つの国家〔満蒙と中国本部〕のなかに残っていた唯一の敵手を打破されました。彼は臣下を幸福にすることに専念しておられます。彼は米倉を開き,朝鮮の奥まで米をゆき亘らせなさいました。国民はこれほど申し分のない君主の治下で生きることを幸福と考えています。しかし,われわれに一層大きな喜びを与えておりますのは,この君主がこれまで以上にキリスト教に好意を示しておられることです。皇帝はこれこそ真の宗教であるとおっしゃいました。何人かの大人(大人)が入教しているのを知って大喜びをしておられます。神が彼自身に入教する恵みをお与えになる時が近づいていないかどうか,だれが知りましょう。・・・皇帝は相変わらずフランス・イエズス会士に信頼を置いておられます。ヂェルビヨン師がこの帝国におけるキリスト教の支柱であることはだれも知っています。数学と中国の諸学問に堪能であるド・ヴィドルー師は皇帝の命令によって,全国土を荒廃させていた河川の氾濫を防ぐためにいくつかの省に赴きました。ド・フォンタネー師は皇帝の命令で( a )師の消息を知るため,また,彼が到着した場合に彼を迎えるために去年広東に参りました。この君主はじりじりしながら( a )師を待っておいでです。こうしてわれわれはこれより幸福な局面で当地に到着することは望めなかったわけなのでした。

〔B〕
 イエズス会の宣教師( a )師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1699年11月30日,北京にて)
 (前段の内容:皇帝の使節が広東のイエズス会士たちのもとに到着し,皇帝の言葉を伝え,皇帝との面会の段取りを説明した。)

 数日後,三使節は私が同志全員とともに広東のわが会の教宅に赴き,皇帝の命令の伝達を受けることを希望しました。われわれが全員そこへ参りますと,ヘンカマは2名の他の欽差〔皇帝の特使〕の前で,皇帝に代わってわれわれに次のことを伝えました。陛下がこの世でもっとも尊ばれているのは徳であり,その次が学問と技能であること,陛下はこの資質をもった仲間を探させるために私をフランスに派遣されたこと,私がこの帝命を入念に果たしたので陛下が喜ばれたこと,私の仲間のうち5人をおそばに置いて奉仕させようと望んでおられること,他の6人に対しては帝国内のどこの土地であろうと居住しに赴き,キリスト教の布教に当たることをお許しになったことなどでした。使節たちが話したあとで,宣教師たちは皇帝が彼らに恵んでくださった御厚意に感謝するために,二列に並んでうやうやしく中国式の九叩頭(きゅうこうとう)の礼をしました。これは非常に多数の大衆の前でおこなわれました。そしてこの人たちはただちにこの噂を市中に広げましたので,このことは広東において宣教師たちの評判を大いに高めたのでした。
 一方,巡撫(じゅんぶ)〔地方長官〕と他の官吏たちは,一つには欽差が指示したところに従うため,また一つにはわれわれの士官たちにもっといい待遇を与えるために,彼らに豪華な祝宴を与えることと,⑤約1万エキュー〔当時のフランスの通貨〕に及び船荷全部に対する課税を免除することとを決意しました。しかし彼らはそのまえにすでに免除されているこの船の碇泊税と計量税に関して純儀礼的な謝意を皇帝に表することを要求しました
 ⑥この種の感謝は中国では叩頭,つまり〔ヨーロッパで言えば〕服従と親族の礼に類する儀式とをもってなされますので,感謝の儀式をおこなう義務のある船長は,他の者の臣属の礼を受けこそすれ,だれにであろうと自ら臣属の礼をおこなうことはできないと,われわれ,すなわちド・ヴィドルー師と私は抗議しました。フランス国民に好意を表することを望んでおり,彼らを悩ますことは好んでいなかった役人たちは,両国民,すなわち一方は中国国民,一方はフランス国民にとって名誉が保たれる形で儀式がおこなわれれば十分であると答えました。このために彼らの方から次のような提案がおこなわれました。すなわちド・ラ・ロック勲爵士(くんしゃくし)は北京の方に向いて,巡撫が船の税の免除に関して船長の傍らに立ったまま告げる皇帝の言葉を聴く,彼は帽子をかぶったまま跪いてこの言葉をうやうやしく聴いたのち,感謝の意を示すためにフランス式のお辞儀をしてもいいし,もしその方を好むなら帽子を脱ぎ,膝をつくことなく身体をかがめて皇帝の言葉を聴き,そのあとでフランス式の敬礼をしてもいいというのでした。・・・彼はこれをきわめてみやびやかにやりましたので,この行為によって巡撫とこの儀式に参列していた他の役人たちから,彼自身および彼の同胞たちに対する尊敬の念をかち得たのでした。

〔C〕
 イエズス会の宣教師ド・フォンタネー師が国王の聴罪司教である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1702年2月15日,浙江省舟山にて)
 (前段の内容:「モスコー人」が東進し,セランガ河を経て黒竜江にまで到ったのち,これらの河を確保するためにニプシュ,ヤクサなどの要塞を築いた)

 万里の長城と黒竜江との間にあるこの広大な地域全体を占している東韃靼人である皇帝の臣民たちは,自分たちが主人であることを主張していた土地にモスコー人が黒貂(くろてん)の猟を争いにやって来て,そこを占領するために築城したのを見て驚きました。彼らは抗議しなければならないと考えました。彼らが二度にわたってヤクサを奪わざるを得なかったのはそのためなのです。モスコー人はあくまでもこの要塞を保持しようとし,そのたびごとにこれを再建しました。こうして相論の種は日に日に増大しましたので,これ以上ややこしくなることは防がなければならなくなりました。双方から両国の境界を調整しようという提議がなされました。モスコー人たちのツァーは彼らの全権大使をニプシュに遣わしました。皇帝も大使とともに,通訳の役を勤めることになっているポルトガル人トメ・ペレイラ師とチェルピヨン師を派遣されました。そして皇帝がこの両師に対して抱いている敬意を示すために,両人に御自身の衣服のうちから二揃いを御下賜になり,二人が第二品の高官たちとともに坐することを望まれました。〔中略〕
 ・・・モスコー人たちは横柄で,尊大な口をききました。⑦中国人の方はまた自分たちが有力な軍隊を伴っており,黒竜江を遡航してやって来る東韃靼からの別軍の到来を待っていましたので,自分たちの方が強力であると信じていました。しかしながら彼らの意図は決して戦争することにあったのではありません。なぜならば彼らは西韃靼人がモスコー人と結びつきはしないか,それとも西韃靼人が中国に対してなんらかの陰謀をたくらんだ場合にモスコー人が彼らを助けはしないかと恐れていたからです。こうして中国人は平和を願っていたのです。それを締結することができないでいたのです。両司祭は中国人がこの窮境にあるのを見,また彼らと会商を阻んでいる困難な事情について語り合った結果,彼らの口から皇帝がモスコー人たちに年々北京へ貿易を行うために来ることを進んで許すであろうということを聞いたのです。チェルピヨン師はそこでこう答えました。「もしそうならば,彼らと和を結び,彼らをあなたがたの意見に従わせることは困難でないとお考えになっていいです」。中国側全権たちは彼の言葉を聞いて喜び,モスコー人の陣営に赴いて,いま司祭が彼らに言ったことと同じことを提議してくれと請いました。司祭は出かけて行きました。そして神は彼の企図を祝福なさったのでした。なぜならばモスコー人たちは司祭が彼らにはっきりと示したように,北京に毎年商売をしに来る自由は自分たちの期待できる最大の利益であるということを諒解しましたので,ヤクサを捨て,皇帝が提起した境界線を呑んだのでした。この交渉は数時間で終わりました。司祭は夜に入るころすっかりできあがった平和条約文をもって帰って来ました。全権たちは二日後には署名し,両方の軍隊の先頭に立ち,天と地の真の主であるキリスト教徒たちの神を証人にして,この条約を守ることを誓いました。
 この和平は両宣教師に多大の名誉を与えました。全軍がこのことについて彼らをたたえました。しかし宣教師たちに一番の愛情を示した人は使節団の長である索額図(ソンゴト)公でありました。彼は自分を大変な窮地から脱却させてくれたことについて何度も礼を言い,とくに,もしあなたがたを喜ばす機会にぶつかったら,その時は自分をあてにしていいと述べたのでした。・・・彼は数年後,皇帝にキリスト教の自由を,公然と請わなければならないと思われた時に,たいへん立派にこの約束を守ってくれたのでした。

(〔A〕~〔C〕出典:『イエズス会士中国書簡集1,5』矢沢利彦訳,平凡社.1970.1974年。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

問1
 下線部①に関連して、この国際的な交易都市は,中国や琉球王国の貿易商人や西方からのムスリム商人が集散する海上貿易の拠点であり、文化発信の拠点でもあった。ポルトガル占領後にはフランシスコ・シャヴィエル(フランシスコ・ザビエル)がこの地を拠点にして布教活動をおこなっている。このマラッカが大きく発展した理由は、ポルトガルによる占領以前に明の保護下にはいり、北方で勢力を広げていた商業国家アユタヤと対抗出来るようになったからである。マラッカを明の保護かに置くことで、永楽帝が企図したインド洋からアフリカに至る遠征を成功させた人物の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して、この書簡の書き手は、上川島にあるフランシスコ・シャヴィエルの墓に参り、イエズス会による東アジア宣教のパイオニアであるシャヴィエルの偉業をたたえ、その遺志を継がんとする決意を新たにしている。このように、ヨーロッパでは宗教改革のなかでプロテスタント諸宗派が台頭するなか、イエズス会は海外宣教を通してカトリック勢力の挽回を担った。宗教改革期のヨーロッパにおいて、新教・旧教間の調停をはかる目的で招集され、カトリックの改革の推進役をはたした公会議の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③の( a )の人物はフランスで測量技術を学び、ルイ14世の命令を受けて中国に渡った。彼は中国で下線部③に登場する「皇帝」に仕えて幾何学、暦学、天文学、医学などを講じ、西洋学術の伝播に貢献したほか、中国最初の実測地図も作成した。またこの皇帝の伝記を記し、ヨーロッパに多くの中国情報を伝えた人物でもある。なお、宣教師を身近に置き、キリスト教にも寛容であったこの皇帝は、古来の字典をもとに空前の規模の漢字字書を編纂させるなど、中国の伝統的な学問の庇護者としても知られている。( a )に入る宣教師の名と、この漢字字書の名を答えなさい。〔各5点〕

問4
 下線部④に関連して、この時期、中国の北西では遊牧民による政権が勢力を拡大していた。この遊牧政権は、シベリアに進出したロシアとも接触し、盛んに使節を交換することでこの地域の覇権をめぐる外交交渉をおこない、交易も進展させた。清朝は、この遊牧政権とロシアとの接近を大いに警戒した。清朝の支配拡大の流れの中で、1690年に始まる清朝軍の度重なる遠征により打撃を受け、1750年代に滅ぼされたこの遊牧政権の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 中国での布教をめざしたシャヴィエルは、上川島で中国本土に渡る船を待つ間に病死した。彼が本土に上陸できなかったのは、明朝が東アジア特有の伝統的な外交関係しか認めず、民間貿易を禁じていたからである。一方、清代に入ると民間貿易も許されるようになり、下線部⑤にも示されているように、宣教師の往来に随伴した貿易は、彼らを寵愛した皇帝のはからいで破格の待遇を受けることすらあった。ただし,皇帝への謝意の強要が示すように,それは,献上品を携えてやって来る宣教師を外国使節と見なし,伝統的な外交の形式にのっとって優遇した結果でもあった。後に西洋諸国との摩擦の原因ともなる,この外交の形式を何というか。その名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して、「叩頭」とは中国において最高級の敬意を表す礼のことである。イエズス会宣教師は皇帝に対してこの礼をおこない,また中国人のカトリック信者が孔子や先祖に対して叩頭をともなう儀式をおこなうことも社会慣習上の儀礼だとして認めていた。しかし後にイエズス会以外の宣教師たちはこの方針は誤りであるとして,信者の孔子や先祖への儀礼を禁止するようローマ教皇に訴え,教皇にそれを認めさせた。皇帝はこれに激怒し,以後中国ではキリスト教は禁教となる。この一連の論争を何というか。その名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦に関連して、清朝は,漢人から見れば異民族(本文にある「東韃靼」人)の王朝であるが,強大な軍事力によって漢人の王朝である明を打倒した。しかし明の領域に兵を進めるにあたって投降した漢人武将の助けを借りたため,明朝打倒後,彼らを優遇せざるをえなかった。後に,この漢人武将の勢力が清朝の脅威となる。本文に登場する皇帝の時代に起こり,この皇帝によって鎮圧された漢人武将の反乱の名を答えなさい。〔5点〕

問8
 上記の史料〔A〕~〔C〕からは,宣教師たちが清朝の皇帝や官僚から信頼を得ており,キリスト教についても一定の理解を得ていたことがわかる。とくに史料〔C〕では,17世紀の終わり頃にある国と清朝との間でおこなわれた条約交渉に宣教師が清朝側の通訳として関与したことが語られている。この条約が結ばれた背景とその内容について,当時の両国が置かれていた情勢,また史料に登場する「モスコー人たちのツァー」,「皇帝」,「イエズス会士」のそれぞれの立場や意図をふまえながら,400字以内で説明しなさい。その際〔A〕~〔C〕の史料と問1~7の設問を参考にしなさい。また,「モスコー人のツァー」の名,「皇帝」の名,この時締結された条約の名,および以下の語句を必ず使用すること。また,これらの語を使用した箇所全てに下線を引くこと。〔20点〕

鄭成功   毛皮

〔2〕

 ペストやコレラなど世界の広範囲に広がり、感染者に思い症状や死をもたらす伝染病は、世界各地の歴史に多大な影響を及ぼしてきた。熱帯から亜熱帯に広く分布し、高熱などの症状をもたらす原虫感染症マラリアも、そのような伝染病の一つである。マラリアに関する次の文章を読み、以下の問に答えなさい。〔40点〕

 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのヨーロッパには、第二の大航海時代とも呼ぶべき新たな探検の時代が訪れていた。①15、16世紀の地理上の発見は、ルネサンスによる視野の拡大と科学技術の進歩を基盤に、絶対主義国家の支援を受けて可能となったが、新たに到来した発見の時代には、自然科学の未曾有の興隆と先進資本主義国の潤沢な資金援助が背景にあった。しかし、探検に必要な装備も充実し、蒸気船の航行が未知の大洋への不安を軽減する近代においては、かつて富の追求とキリスト教の布教という名目の下に正当性を付与されたヨーロッパの体外膨張も、植民地主義・帝国主義による「世界の一体化」という意図を一段と鮮明にし、やがて世界地図に残る空白部はヨーロッパ列強の政治勢力によって埋め尽くされる結果となった。
 ここで、キニーネは、かつて不可能とされていた熱帯奥地への白人の侵入を可能にし、ラマッツィーニの譬えた「銃器にも匹敵する役割」を存分に果たすことになった。イギリスが、熱帯アフリカとアジアの植民地を中心に建設した大帝国もキニーネなしでは存在しなかっただろうといわれる。
 そのイギリスが、19世紀半ば以降セイロン(現スリランカ)でキナ園を経営することになったのは、( a )によって独占販売されていたキニーネの供給不足が原因であった。イギリスがキナノキの苗木を入手するまでについては、探検家C・H・マーカムの活躍が伝えられている。彼はペルーの儒林に侵入して苗木を盗み出し、追跡する一隊との間に映画そこのけの逃走劇を演じた末、本国に送り届けたのである。これも、キニーネがイギリスの植民地経営と熱帯への進出にどれほどの重要性を持っていたかを証明するエピソードであろう。
 ポルトガルが先鞭をつけた西アフリカ航路は、ヴァスコ・ダ・ガマの航海によってインド航路につながったが、②この喜望峰廻りの苦難を強いる長い旅程も、スエズ運河の開通で著しく短縮されていた。イギリスは1882年以来、スエズ運河地帯の駐兵権を得、インドを中核とするアジア・アフリカ支配における優位をさらに決定的にしていた。次いで、パナマ運河の開通が、モンロー主義を拡大解釈し、対外干渉を正当化するアメリカのラテン・アメリカ支配を促進した。これは、すでに( a )のタスマンやイギリスのジェームズ・クックによって探検されていたオーストラリア、ニュージーランドなどの太平洋地域、フィジー諸島、パプア・ニューギニア、タヒチ、ニューカレドニア、ビスマルク諸島、ハワイ、フィリピンなどの島々の帝国主義列国による分割統治を完成に導くことになった。
 これらの地域の自然環境が、キニーネの大量消費を必要としたことは断るまでもないであろう。一方、デービッド。リヴィングストン、ヘンリー・モートン・スタンリーに代表される19世紀の探検家たちは、相次いで内陸アフリカに進出した。・・・アフリカ探検家の中でも最も名高い宣教師リヴィングストンは、ザンベジ河に沿って大陸を横断し、ヴィクトリア瀑布を最初に見たヨーロッパ人となった。次いで、一時行方不明になったリヴィングストンの救出に当たったアメリカ人ジャーナリスト、スタンリーがコンゴ河流域を探査し、両者によって中央アフリカの空白部が地図上に書き込まれる端緒が与えられた。
 しかし、「夢と冒険」に満ちた彼らの大事業の多くが強国の支援を受けている以上、「発見」された土地が強国の領有に帰する結果を招くのは避けられないことであった。結核の転地療養のためにチュニジアに滞在したことから探検行に出発することになったナハティガルは、帰国の途次病没したが、それまでにトーゴ、カメルーンの両地をプロイセン国王に引き渡すだけの余命は保った。スタンリーは、コンゴ流域の探検に必要な援助をベルギーのレオポルド2世に仰ぎ、そのためコンゴは、ベルギー王のアフリカにおける唯一の私領となった。後に正式にベルギー領となったこの地は、圧政と収奪のためやがて国際的非難を浴びることになる〔中略〕
 ヨーロッパ各国で、病原微生物の発見が競われた時期が、このような世界の帝国主義的再編の時期に重なっているのも偶然とはいえまい。新たに領有した地域への軍隊の派遣・入植には、まず環境の整備よりも、病原微生物という敵を明確に捉え攻撃するほうが、より効果的かつ簡易な方法だったからである。これによって白人の保健衛生状態を効果的に保つことは、ヨーロッパ列強の植民地支配を推進する上で何よりも急務とされた。コッホが、ドイツ及びイギリス政府の依頼を受けて、マラリアをはじめとする熱帯病の調査の目的で、インド、ニューギニア、そしてアフリカ等へ前後9回に及ぶ出張を繰り返したことも、こうした背景と切り離して考えることはできまい。
 ラヴェラン、③マンソン、ロス――マラリアという病気の実体の解明に取り組んだ人びとは、いずれもアルジェリア、厦門、インドという英仏の支配下にあった土地で重要な発見をしている。科学上の発見がある一時期に集中するという現象はさほど珍しくない。それはどのような画期的な成果も相応の前史をもち、着実に積み重ねられた歩みの最後の一歩だということの証拠である。だが、時にはそこに目に見えない形で、あるいははっきりと目に見える形で、何らかの政治的な要素が介入し、科学の歩みを総体的に促進するという事実があることも否めないのである。殊に、この時期の熱帯病学の急速な発展は、列強の植民地支配の歴史と密接な関係を持たざるを得なかった。
 スタンリーの旅行記の一つは、『暗黒大陸横断記』と題されていた。この表題からもヨーロッパやアメリカが、植民地支配を正当化するためにひつようとした「未開と文明との対比」という文脈が察せられるであろう。キニーネは、いわば「暗黒大陸」に差しこんだ文明の曙光の象徴であったが、それは、少なくともこの段階は、白人の利益に貢献する以外の効果はほとんど持たなかったのである。アフリカには、イスラムとの交易によって栄えたガーナ王国や、これを吸収したマリ帝国、ジンバブウェ遺跡で知られるモノモタパ王国など数多くの古代王国の興亡があり、④独自の文化が存在していたにも拘わらず、野蛮と蒙昧のみが喧伝されるようになる過程には、アフリカの富を直接自国の富に転化させようとする国々の思惑が働いていた。それは英仏間に起きたファショダ事件や、独仏間の両次にわたるモロッコ事件における各国の利害の衝突という形で、あからさまに露呈した。このようなヨーロッパ列強の利害の対立は、1914年、緊張の度を強めていたバルカン半島で火を噴き、サラエボ事件を契機に第一次世界大戦が勃発する。この大戦中にマラリアが広げた惨禍は著しく、各地で多くの人名が失われた。〔中略〕
 それでも戦争中は流行が局所に限定されるだけまだしもよかった。マラリアの被害は、むしろ戦争が終結した後でさらに広範囲に広がったのである。帰還兵の中には未治療の罹患者や治療半ばの患者が多く、彼らは洗浄の記憶とともにマラリアを故国に持ち帰った。かつての戦場は濃厚に汚染されたまま、すでに軍部による組織的な防疫の努力も放棄されていた。加えて、列強の植民地分割、民族自決の原則による新興国の誕生が民族の移動を促し、マラリアもそれに従って大がかりな移動を開始した。連合国と同盟国とを問わず、西ヨーロッパ諸国もいったんは追い払ったはずの悪夢に再びとりつかれたが、敗戦国では殊にこの「戦後マラリア」は深刻な問題になった。
 ロシアでは、十一月革命以後も内乱が続発し、さらに戦時共産主義の統制政策の下で不満を募らせる人びとを飢餓や凶作が襲っていた。1921年、レーニンは新経済政策を採用してこの難関を乗り切るが、史上初の社会主義国家の建設を多難なものにした原因の一つにこの時期のマラリアの流行があった。〔中略〕
 第一次大戦の戦中・戦後におけるマラリアの蔓延は、常在地にあらためてその脅威を認識させただけでなく、久しくこの病気の恐怖から解放されていたヨーロッパの人びとにもマラリアとの長くて深いつき合いを思い起こさせた。アメリカでは、大戦勃発の翌年から⑤黄熱の制圧に乗り出していたロックフェラー財団が、マラリアに対しても制圧への道を探り始めた。国際連盟の保健部では、1924年にマラリア委員会が発足し、世界的規模で本格的な調査と研究が開始された。そこではやがて特効薬として長い間尊ばれてきたキニーネの見直しと、新たな治療薬の製造が最重要課題となってきた。

(出典:橋本雅一『世界史の中のマラリア―――微生物学者の視点から』藤原書店、1991年。なお、一部を省略し、一部の表記を改めた。)

問1
 下線部①に伴い植民が進んだ結果,伝染病が猛威を振るった地域の一つにアメリカ大陸がある。キリスト教の布教と金銀などの富の獲得を目的に,ヨーロッパ諸国が進出する過程において,天然痘ウィルスをはじめとする病原体が大陸に持ち込まれた。免疫を持たなかった先住民は人口を大きく減らしたが,それに追い打ちをかけたのが,入植者による先住民の酷使であった。その様子は16世紀半ばに作成されたある聖職者の報告書によって知ることができる。スペイン本国に送られたこの報告書の著者の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,19世紀以降,蒸気船の普及やスエズ運河の開通,鉄道の整備により人の移動が容易になると,毎年イスラーム世界各地からメッカ巡礼に多くのムスリムが集まるようになり,伝染病伝播の原因ともなった。また,伝染病ばかりでなく,19世紀後半のムスリム改革主義知識人アフガーニーらが提唱し始めた,ヨーロッパの植民地主義に対抗するためにムスリムが団結するべきだとの新しい思想も,巡礼者のネットワークに乗ってイスラーム世界各地に広がった。この思想の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③関連して,マンソンはアヘン戦争によって開港した貿易港の一つ厦門でフィラリアやマラリアの病原微生物の研究に従事した。彼は中国で23年間過ごしたあと1889年に帰国し,世界各地に広がるイギリス植民地の必要に応えるためロンドンに熱帯医学と公衆衛生学を専門とする学校を開設している。また彼は中国生活の最後の7年間を過ごしたある植民地都市で,中国領域内では初となる西洋医学学校も開設した。厦門と同じくアヘン戦争によって開港したこの都市の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④に関連して,知的探究心から始まった18世紀末のアフリカ内陸探検は,結果としてアフリカを列強の植民地獲得競争に巻き込んだばかりでなく,「暗黒で野蛮な大陸」というイメージを広めていった。しかし,15世紀半ばにポルトガルがアフリカに奴隷貿易を持ち込む前の時代,キルワなど,アフリカの東海岸諸都市は,アラビアやインド,東南アジア,中国との大規模な交易によって大いに栄え,その商業活動のなかから独自の言語と文化を育んでいた。アフリカ固有の文法をもち,アラビア語に由来する語彙を数多く含む,東アフリカ一帯で今日まで広く用いられているこの言語の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,20世紀初めのアメリカでは,企業活動により莫大な資金を手にした実業家たちにより,社会の公益や福祉の増進,科学の発展等を目的としたいくつかの慈善事業団体が設立された。大石油資本家ロックフェラーが設立したこの財団も,それらのうちの一つである。1900年に渡米し,ロックフェラー医学研究所で梅毒や黄熱病の研究をおこない,研究のために渡航した西アフリカのアクラ(現ガーナ首都)で黄熱病に感染して1928年に死去した細菌学者の名を答えなさい。〔5点〕

問6
(1)
 ( a )に関連して,熱帯病は,ヨーロッパ諸国がアフリカなどの熱帯地域を植民地化するにあたって大きな障害とみなされていた。熱帯病の一つであるマラリアに対しては,南米原産のキナノキの皮に薬効があることが17世紀にイエズス会士によってヨーロッパに伝えられ,19世紀にはキナノキの皮から特効薬キニーネが抽出された。バタヴィアに拠点を置いていた( a )は,熱帯に獲得した植民地においてキナノキの栽培に成功し,第二次世界大戦が始まるまで世界で使われるキニーネの原材料のほとんどを供給していた。( a )に入る国の名を答えなさい。〔5点〕

(2)
 大航海時代のヨーロッパ諸国の海外進出の動機には,キリスト教の布教という精神的な側面と利潤の追求という物質的な側面があった。東南アジアの場合,その利潤追求のあり方は19世紀に入ると変化が見られる。その変化の経緯について100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。〔10点〕

東インド会社   香辛料   ゴム   スズ

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