東京外国語大学 2015年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 1822年,ラテンアメリカのある国が,ポルトガルからの独立を宣言した。次の史料〔A〕は,イギリスがその独立を承認すべきか否かという問題について,外務大臣カニングが閣議のために記した覚書の一部である。
 その9年後の1831年,フィッツロイが艦長をつとめるビーグル号は,ダーウィンをのせて探険航海に出発し,約5年間におよぶ航海の途中でこの国に立ち寄った。史料〔B〕と史料〔C〕は,それぞれフィッツロイとダーウィンが書いた航海記から,この国に関する記述を抜粋したものである。
 これら〔A〕,〔B〕,〔C〕の史料をよく読んで,以下の問に答えなさい。なお,下の図は,ビーグル号の航海図(概略)である。

〔A〕
 ( ① )は,合法的奴隷貿易の一大中心地です。かの国に存続する合法的奴隷貿易を隠れ蓑に,条約と法に反するあらゆる奴隷貿易が行われています。( ① )が自ら奴隷貿易を廃止しなければ,奴隷貿易を植絶することはできないのです。しかし,諸々の事情により,奴隷貿易全廃の可能性が見えてきました。千載一遇のチャンスです。〔中略〕( ① )は,今まさに動揺しています。それは,イギリスの決断が( ① )独立の成否を左右すると考えられるからです。しかし,もし,我々が判断を遅らせ,②オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら,あるいは,フランスが奴隷貿易の存続を支持し,それを支援することになったら,イギリスが独立を認めるかわりに,( ① )は奴隷貿易を廃止するという我々の提案は,時宜を失ってしまいます。〔中略〕③西インド植民地を救う方法は,奴隷貿易を全廃することであり,それは( ① )に奴隷貿易を廃止させることによってしか達成できないのです。

(A.G. Stapleton, The Political Life of the Right Honourable George Canning, 1831. およびLeslie Bethell, The Abolition of the ******Slave Trade, 1970. 表題を一部伏せた。)

〔B〕
 ポルトガルから分離したバイーアは,衰退の一途を辿っています。不安定な政府は弱体化し,絶えまない党派抗争にあけくれてきました。失政が続き,真の意味で国を進歩させるという課題は置き去りにされたままなのです。④相次ぐ革命と黒人蜂起によって,交易が妨げられ,この豊かで美しい国は疲弊してしまいました。今またそうした動乱が,起きようとしているのです。〔中略〕
 ( ① )人は自分たちの置かれた状況をはっきりと理解することができるでしょうか。利己的な行動に走る人々を,一致団結して非難することができるでしょうか。そして,自国の奴隷を解放するだけでなく,奴隷の輸入を断固として防ぐことができるでしょうか。もし,それができるのなら,( ① )は繁栄の遠を歩み始め,人口はどこまでも増えていくことになるでしょう。⑤広大で肥沃な土地をもつ( ① )では,そうなっても人々が困窮することはないはずです。食料は十分にあります。温暖な気候のため,必要最低限の衣類を調達することも難しくありません。
 ( ① )において奴隷制度が存続しているのは,人口が不足しているからです。もちろん,それだけが奴隷制度の原因というわけではありませんが,やはり,原生林を切り開き,土を耕し,炎天下で働き,サトウキビや綿花やキャッサバなど,熱帯気候の農作物を育てることができる,勤勉な人々が不足しているのです。
 人口不足を解消するのは非常に困難なため,( ① )などでは,自分のことしか考えない,行き当たりばったりの大地主が,不運にみまわれた人々を,何百人,何千人と連行してくるのです。彼らは,ひとたび陸に上がれば,地主の金儲けに使われる哀れな道具となるほかはないのです。どんなに多くの船を集めても,⑥両大陸の海岸線を閉鎖することなど,到底不可能です。

(Robert FitzRoy, Narrative of the Surveying Voyages of his Majesty’s Ships Adventure and Beagle, 1839.)

〔C〕
 8月19日,わたしたちはようやく( ① )の岸を去ることができました。もう,二度と決して,わたしが奴隷の国を訪れることはないでしょう。今になっても,遠くから悲鳴が聞こえてくると,ベルナンブコの近くの家で通りすがりに聞いた,このうえなく哀れなうめき声を鮮明に思い出し,心が痛みます。きっとある不幸な奴隷が拷問にかけられていたはずです。しかし,わたしは子どものように無力で,いさめることさえできませんでした。〔中略〕聞けば心がはりさけそうになる残虐な話を,わたしはいくつも耳にしてきました。それらは信憑性のあるものです。しかし,ひとつひとつの話を記述するつもりはありません。上記のような不愉快な話も,奴隷制は必要悪だと主張する人々に,何度か出会うことがなければ,ここでこうして紹介することもなかったでしょう。そのような人々は,黒人の生来の明るさに目を奪われて,何も見えていないのです。かれらは上流階級の邸宅を訪問するわけですが,上流階級の家内奴隷の待遇はまずまずのものです。かれらは,わたしのように下層階級の人々と暮らしたことなどありません。そして,かれらは奴隷の地位や待遇について,奴隷自身に尋ねるでしょう。しかし,答えた内容が主人の耳に届くかもしれないと考えることのできない愚鈍な奴隷など,いるはずがありません。そんな当たり前のことが,尋ねる人間の頭からは,抜け落ちているのです。
 私利私欲のある者は自分の所有する家畜を大切にするものだから,そうした人間が奴隷をそこまで酷く虐待することはないと主張する人がいます。もっとも,家畜にくらべれば,定められた奴隷のほうが,野蛮な主人の怒りをかう可能性ははるかに高いと言えるでしょう。ともかく,この主張に対しては,高尚なる情念によって,はるか以前に異議が唱えられています。その優れた模範を示してくれたのが,永遠に偉大なる⑦フンボルトでした。〔中略〕⑧わたしたちイギリス人と,アメリカに渡ったその末裔とが,高らかに自由を叫びつつも,大いなる罪を犯し,そして今なお,その罪を背負っていることを思うと,わたしの血は煮えたぎり,心が震えてしまいます。しかし,わたしたちは罪をあがなうために,少なくとも,他の国より多くの犠牲を払ってきました。そのことを思い返せば,多少は気持ちが楽になります。

(Charles Darwin, Journal of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited during the Voyage of H.M.S. Beagle round the World, 2nd ed., 1845.)

問1
 史料〔A〕が示すように,イギリスは( ① )の独立を承認するかわりに,( ① )に奴隷貿易を廃止させようとした。そして,1826年,イギリスと( ① )のあいだで奴隷貿易禁止条約が結ばれた。しかし,史料〔B〕と史料〔C〕が示すように,この条約は死文化し,( ① )では,1850年代まで奴隷貿易が存続することになった。( ① )の国名を答えなさい。

問2
 下線部②に関連して,オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリア・レオポルディーネは,( ① )皇帝ペドロ1世の皇后だった。そのため,スペインから独立したラテンアメリカの新生共和国は,オーストリアを中心とする神聖同盟の再植民地化政策を賛成した。この神聖同盟をオーストリアとともに発足させた国を,すべて答えなさい。

問3
 下線部③に関連して,西インド諸島の一部である(現)ドミニカ国は,1763年,七年戦争の講和条約により,フランスからイギリスに割譲された。この時,アフリカ西岸における奴隷貿易の拠点のひとつだったセネガルも,イギリスに割譲された(その後1783年に,再びフランス領となる)。セネガルをイギリスに割譲した,この条約の名を答えなさい。

問4
 下線部④に関連して,フランス領サン=ドマングでは,1791年,黒人奴隷による反乱が勃発し,1804年の独立宣言,1805年および1806年の憲法制定をへて,「黒人共和国」であるハイチが誕生した。ハイチ独立の情報は,( ① )などラテンアメリカ各地へと伝わり,黒人奴隷解放運動が広まったが,それらはすべて弾圧され,失敗に終わった。ハイチ独立運動の指導者として活躍し,1802年にフランス軍に捕縛され,その後,獄死した人物の名を答えなさい。

問5
 下線部⑤に関連して,1798年,イギリスでは食料生産と人口増加との関係を論じた『人口論』が出版され,その後,多くの知識人に影響をあたえた。探険航海から戻ったダーウィンも『人口論』を読んだことで,「自然選択」説の着想を得たと考えられている。この『人口論』の著者を答えなさい。

問6
 下線部⑥に関連して,( ① )では16世紀半ばに,サトウキビ栽培のプランテーションが開発されたが,労働力が不足したため,アフリカから黒人奴隷が輸入された。それにより,アフリカには奴隷の供給源として,いくつかの黒人国が隆盛した。そのうち,おもにポルトガル商人を介して( ① )に奴隷を供給し,現在のナイジェリアの地に栄えた国の名を答えなさい。

問7
 下線部⑦に関連して,アレクサンダー・フォン・フンボルトは,18世紀未から19世紀初頭にかけてラテンアメリカを探険した,著名な探険家・博物学者である。啓蒙期のヨーロッパ諸国は,太平洋諸島や南米大陸などに関する正確な情報を集めるため,科学的な探険事業を組織した。こうした探険航海の先駆者として,ニュージーランドやオーストラリア大陸東岸の調査を行い,ハワイで島民に殺されたイギリス人探険家の名を答えなさい。

問8
 下線部⑧に関連して,イギリスでは奴隷制廃止運動の高まりを受けて,1807年に奴隷貿易が廃止された。1833年にはイギリス帝国における奴隷制度が廃止され,奴隷所有者のプランターには多額の賠償金が支払われた。同じ頃のアメリカ合衆国では,南部諸州において,黒人奴隷を使用した綿花栽培が盛んに行われていた。奴隷制を擁護する南部のなかの11州は,その後,合衆国を離脱してリンカーンによる連邦政府への攻撃を開始し,ここに南北戦争が勃発した。このとき,南部11州が結成した国の名を答えなさい。

問9
 上記の史料〔A〕〔B〕〔C〕からは,イギリスがポルトガルに奴隷制度を廃止させようとした背景には,人道主義の理念だけではなく,経済的な利害関心があったことがわかる。とくに後者に関しては,砂糖生産をめぐる国際競争があったことが示唆されている。下のグラフが示すように,( ① )の砂糖輸出が拡大する一方,英領西インド諸島における砂糖生産は衰退傾向にあった。
 このような事情をふまえたうえで,史料〔A〕において,カニングが( ① )の独立を認めようとしながら,( ① )による奴隷貿易の廃止を訴えた理由を,ウィーン体制発足後の国際関係に言及しつつ,400宇以内で説明しなさい。その際,〔A〕~〔C〕の史料と問1~8の設問を参考にしなさい。また,以下の語句を必ず使用すること。

メッテルニヒ  モンロー  安価な労働力 1807年  工業製品
(これらの語を使用した箇所全てに下線を引くこと)

〔2〕

 1970年代以降,女性運動の歴史に関する研究が本格化し,アジアにおけるナショナリズム運動とフェミニズム運動との緊密な関係性と,同時に,両者のあいだの矛盾が明らかにされつつある。以下の文章は,そうした研究潮流の初期に位置づけられる著作の一部である。文章を読み,以下の問に答えなさい。

 アジアの多くの改革者たちは,西欧の発展の鍵は西欧社会に蝕する女性たちによる自立だと捉え,「東洋的な後進性」は女性の低劣な地位に由来すると論じた。1862年,①遣欧使節団の通訳を務めた福沢諭吉は男女の平等を唱えた。彼は『学問のすゝめ』のなかで,日本社会をより「見栄えよく」,「文明化された」ように見せるために,男女間の伝統的な服従関係を批判し,一夫一婦制と婚姻における相手の自由選択とを支持した。
 社会における女性の地位が「文明」の一般的な指標とされ,多くの改革者たちは,女性たちの置かれた状況を改善するために,社会立法を提起した。インドでは1818年にラームモーバン・ローイが,宣教師たちが「恐るべき慣習」と呼んだもの(サティー〔寡婦殉死〕のこと)に反対する運動を先導した。その後,ヴィディヤーサーガル,K.C.セーン,ラーナデーやフレーなどがこれに続いた。日本では福沢や徳富蘇峰の括動が注目されていた。20世紀初頭の「青年トルコ人」運動では,Z・ギョカルプの名前を見落とすことはできない。中国では19世紀未から20世紀初頭にかけて康有為や孫文の括動が目立った。朝鮮の徐載弼やフィリピンの( ② )の存在も注目されるものであった。
 この新意識は「文明開化した」女性を必要としていた。つまり新しいブルジョア的な男性は自らが西洋教育や宣教師の影響の産物であり,新女性をその連れあいとして必要とした。その条件として外国語の習得,新しい様式での衣装の使用や西洋的な礼儀に習熟していることが求められた。その主たる役割は家庭内にあるとされたものの,植民地社会において「見苦しくない」女性であることが必要とされた。19世紀ヨーロッパで流行した「新女性」の概念と用語は,教育を受けた階級の男女によって熱心に受容された。1901年にはカースイム・アミーン著の『新女性』が刊行され③1919年にはエジプト女性たちが「新女性協会」を創設し,同年,日本では「新女性の会」が創設された。この時期と前後して中国と朝鮮でも,それぞれ女性向けの新雑誌が創刊された。
 用語は同一でありながら,この「新女性」概念には地域によって相違が見られた。一部のイスラーム諸国では重点が,最新の流行の採用を含め,女性たちによるヨーロッパ式の衣装の模倣と伝統的な衣服の廃棄に置かれた。近代主義者はベールの使用を女性隔離と後進性の痕跡であると理解していた。封建制の象徴とみなされたベールの廃棄に重大な意義が与えられ,女性によるベール放棄の行為は旧秩序に反抗する劇的な瞬間ともなった。
 他のアジア文化のなかで,果敢な女性たちは折にふれて男性の衣服を着用した。これは女性らしい行動と身のこなしに関する伝統的な見解への挑戦であった。最もよく知られた事例のひとつは,④インド大反乱時におけるインド中央部のジャーンシー藩王国の女王であって,1857年の対英独立戦争の際,彼女は騎兵戦で軍隊を率いてイギリス軍に挑戦した。時のイギリス人インド総督カニング卿は,「女王はターバンを被った男性同様の衣服を常時身につけ,男性同様に馬で戦場を駆けめぐっていた」と指摘している。この他,女性革命家の秋瑾は,20世紀初頭の日本滞在中にしばしば男性の服装をしていたし,第1次世界大戦後,1920年代に革命的解放軍に属した中国女性は,男性の兵服を着用した。
 女性解放の新意識に対する西洋側の影響の著しい事例は,( ⑤ )の『人形の家』(1879年)によって示される。作品の主題が,女性の役割に関して認知されたあらゆる社会規範を脅かすものであったため,ヨーロッパとアジアの双方に大スキャンダルを巻き起こした。主人公ノラは伝統的な束縛と正統派的な道徳性から脱却し,自我の意識的な主体性を達成しようとする闘いを象徴していた。中国,日本,朝鮮,インドやその他のアジア諸国において,ノラは女性だけでなく,「旧秩序」からの解放に挑んだ知識人にとっても議論の的となり,解放の象徴となった。インドではネルーがこれに言放し,中国では⑥魯迅がこの作品に批判を加えた。
 しかしこれは全体像を成すものではなかった。新しく登場したブルジョアジーは民族的な主体性の達成をその範とするなかで,民族文化に回帰した。つまり新女性は伝統文化の全面的な否定者とは成り得ないとした。彼女たちは依然として民族文化,現地の宗教や家族的な伝統の後見人として,「近代」と「伝統」を同時に体現する必要があった。
 この地位を維持・強化するために改革者によって提起されたのは,地域における遠い過去の文明の理想化であって,そこでは女性は社会内で高い地位を享受していたとする主張であった。トルコではその祖先が中央アジアで遊牧生活を営んでいた頃に,女性は自由を保持していたという。イランの改革者は自国の歴史に言及し,ゾロアスター的な伝統が女性に高い地位をもたらしたと主張した。日本では女性の太陽神や女性の天皇に対する言及がなされた。インドでは社会改革者と政治家は常に,女性が自由だとされていた古代の( ⑦ )文化の黄金時代に範を求め,インドに女性が社会で高い地位を確保する伝統が存在することを示すため,神話上の女神や戦争の先頭に立った女王が称賛の的にされた。

(出典:クマーリ・ジャヤワルダネ『近代アジアのフェミニズムとナショナリズム』中村平治監修,新水社2006年。ここでは,原著を参照しつつ,訳文を一部加筆・修正した。)

問1
 下線部①に関連して,幕末から明治初めにかけて外交交渉と海外視察などを目的としたいくつかの使節団が欧米諸国に派遣された。1871年に出発した岩倉使節団には数十名の留学生も同行したが,この時5人の女子留学生の最年少者として米国に留学し,のちに女子英学塾を設立して日本の女子教育の先駆者となった人物の名を答えなさい。

問2
 ( ② )の人物は,小説などでスペインの植民地支配を批判するとともに,フィリピン人はスペイン人支配者と知的,道徳的に同等であるという見解を持ち,女子教育に関しても,その必要性を主張した。1892年にフィリピン同盟を結成した,この民族運動家の名を答えなさい。

問3
 下線部③に関連して,第一次大戦勃発以降イギリスが保護国としたエジプトでは,大戦後に大規模な独立運動が起こった(1919年革命)。その際,運動の主体となった民族主義政党党員の妻らもデモを組織し,女性の政治運動参加への契機となった。この政党の名を答えなさい。

問4
 下線部④に関連して,ジャーンシー藩王国王妃ラクシュミー・バーイー(図1)は軍隊を組織してイギリス軍と戦い,のちに国民的英雄として広く敬愛された。一方,インドを支配するイギリスは,1837年に即位した女王のもとでパクス・ブリタニカと呼ばれる繁栄と成熟の時代を迎えていた。同女王の家族の様子を描いた肖像画(図2)は,この時代の理想的な家庭像をイギリス国民に提供した。
 インド大反乱の結果を受けて,イギリスのインド統治はどのように変化していったか。以下の3つの語句と図2の女王の名を用い,100字以内で説明しなさい。

東インド会社   ムガル皇帝   インド帝国
(これらの語を使用した箇所全てに下線を引くこと)

問5
 ( ⑤ )の人物は,ノルウェー出身の劇作家・詩人であり,人道主義の立場から社会問題をあつかった。代表作のひとつである『人形の家』の女主人公ノラが夫と子供を残して家を出るというストーリーは,既存の社会規範をゆるがすものとして,世界各地で議論を呼び起こした。この作家の名を答えなさい。

問6
 下線部⑥の作家は,中国の伝統教育を受けた最後の世代に属する。彼ら男性が文字や作文を学ぶ大きな契機の一つでありつづけ,女性の文化的・政治的社会進出を阻むことにもなった伝統的な官吏登用試験の名を答えなさい。

問7
 ( ⑦ )に関連して,インドのナショナリストたちは,古代には幼児婚もなく,女性にも男性と同様の教育の機会があったとしばしば主張した。( ⑦ )にはいるインド最古の文献群の総称を答えなさい。

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