〔1〕
次の資料は,フランチシェク・パラツキー(1798-1876)が,1848年の三月革命勃発後,ドイツ統一を話し合うための国民会議の準備に招碑されたときに,それを拒絶した手紙である。パラツキーは,チェコの歴史家で,19世紀のチェコ民族運動の指導者であり,のちに「チェコ民族の父」と呼ばれることになった。この手紙を読んで,以下の問に答えなさい。〔60点〕
50人委員会・ゾイロン委員長あて
4月6日づけの手紙を郵便で,ちょうど受け取りました。ドイツ議会をなるべく早急に招集することをめざした賢人たちの会議に参加を求めるべく,私を( ①-a )へお招きいただきましたことは,たいへんな名誉であります。ドイツ最高の賢人たちが,私の態度に完全な信頼を変わりなく寄せてくださったことに,うれしい驚きを禁じえません。私に対しては,ドイツ国民の敵である,という不当な非難が繰り返しなされてきましたが,「ドイツの愛国者たち」の会議へ私をご招待くださったことで,このようないいがかりから私を救ってくださるからです。このすばらしい集まりが高い人間性と正義心を示してくださったことに,心からの感謝の念を表します。まさにそれだからこそ私は,完全な信頼をもって,率直に,包み隠さず,お返事をしなければならないと考えます。
皆さんの呼びかけを,私は,みずから受け入れることもできなければ,誰かほかの「しかるべき愛国者」を代理として送ることもできません。そのように決心した理由をできるだけ簡潔に述べることをお許しください。
皆さんの集まりの目的は,従来の「②君主の連合」に代えて,「ドイツ人民の連合」を結成することにある,と表明されています。ドイツ国民に真の統一をもたらし,ドイツの国民的心情を発揚させ,内にも外にもドイツの力を高めていこうというのであります。こうした努力やその底にある心情を私は尊重しますが,いや尊重するからこそ,そこに参加することはできません。私はドイツ人ではないし,少なくともそのようには感じていません。皆さんは,意見も意志ももたないイエスマンをお招きになりたいわけではないでしょう。
もし( ①-a )へ行くとしたら,私は自分の信条を否定して,調子をあわせるか,そうでなければ,しかるべき機会に大きな声をあげて異議を唱えなければならないでしょう。調子を合わせるには,私は正直で率直すぎますし,異議をとなえるほど厚かましく,周りが見えないわけでもありません。つまり,不協和音をもって調和を乱すのは私の心に反するのです。調和を望ましく,よろこばしいものに思うのは,自分の家のことだけではありません。隣人のところでも同じことです。
私はスラヴ系のボヘミア(べーメン)人で,微力ではありますが,わが国民のために全身をささげてきました。この国民は小さくはありますが,ずっと昔から独自のものとして存在してきました。その君主は,数世紀来,ドイツ諸侯と結びついてきましたが,国民自体は,ドイツ国民とみずからみなしたことはありませんでしたし,この何世紀ものあいだずっと,他からもまた,ドイツ国民とみなされたことはありませんでした。この事実は,③ドイツの歴史家であれば,私同様にご存知のことでしょう。もし疑われるなら,曇りなく説得してみせましょう。ボヘミア(ベーメン)とドイツとの従来のつながりは,君主と君主のつながりに過ぎず,国民と国民のつながりと理解することも,そのようにみなすこともできないのであります。にもかかわらず,ボヘミア(べーメン)国民そのものをドイツ国民に結びつけよう,ということがいま求められているのです。だとするならば,それは少なくとも新しい,歴史的な法的根拠を欠いた要求なのであって,私自身は,はっきりした完全な重任をわが国民から受けない限り,これに返答する資格があるとは思えないのです。
私が皆さんの会合に参加できない第二の理由は,皆さんが,オーストリアを取り返しのつかないぐらい弱体化させること,それどころか独立した帝国としての存立を不可能にすることをお望みだからです。それは,皆さんの目的と意見から明らかでしょう。オーストリアの保全,その一体性を保つこと,それを強国としておくことは,わが国民の問題であるばかりでなく,ヨーロッパ全体にとって,さらには人道そのもの,文明そのものにとって重要なことであり,重要なことであらざるをえないのです。この点について,簡単ではありますが,私のことばに耳を傾けていただきたいと思います。
どのような大国が,ヨーロッパ東部の広大な地域を占めているのか,ご存知のことと思います。この大国は,もうすでに巨大な大きさに達していますが,さらに内側から膨張し続け,十年を経るごとに,西側の国々では考えられないぐらいの勢いで強くなり,発展しています。この大国の内奥には攻め込むことも,達することもできず,もう以前から外部に対して脅威となっているのです。この国は北でも攻撃的ですが,まずその本能に導かれて,④南へ拡大しようとしていますし,今後もそうでしょう。この国がさらにこのような道を進んでいくならば,ひとつの新たな世界帝国が出現する恐れも遠いことではありません。それは想像もつかないような,名づけようもないような災いであり,際限のない破局であり,私は人道のために深く嘆くべきことだと考えます。私は身も心もスラヴ人ではありますが,この国がみずからをスラヴの園と称するとしても,それにかわりはありません。私がドイツでドイツの敵といわれるのが不当であるのと同じように,私はロシアで多くの人からロシアの敵といわれ,そのようにみなされています。そうではないのです。私は大声で,率直にいいます,私はロシアの敵ではないのです。その逆です。私は,⑤この偉大な国民が,自然国境の内側で,文明化への道を一歩一歩前進していくのを,注意深く,共感を持って,追ってまいりました。私は,わが民族を熱く愛してはおりますが,人道と科学は,私にとって,民族の独自性より重要なものなのです。それゆえに,ロシアが世界帝国になるかもしれない,というだけでも,それに対して私以上に反対し,戦おうという者はいないでしょう。それがロシアだからではありません。それが世界帝国になるかもしれないからなのです。
起源も,言語も,歴史も,慣習も非常に異なった多くの諸民族が,ヨーロッパの南東部,ロシア帝国の国境にそって,居住していることはご存知でしょう。スラヴ人,ルーマニア人,マジャール人,ドイツ人たちであり,ギリシャ人,トルコ人,アルバニア人については言うにおよびません。このうちのひとつとして,はるかに強大な東方の隣人に対して,将来にわたり,単独でずっと抵抗を続けていけるような力をもったものはありません。それができるのは,一つの連合のもとに強固に団結してたがいに統合されている場合だけなのです。こうした諸民族の連合は不可欠であり,その生命線はドナウです。したがってこの連合がそもそも意味のあるものであろうとするならば,その権力の中心はドナウから遠く離れてはなりません。たとえ,オーストリア帝国がこの世になかったとしても,ヨーロッパ,そして人道のためを考えるならば,すぐにでもそれを創りあげなければならないくらいなのです。
⑥オーストリアは,その本性からして,そして歴史からして,あらゆるアジア的要素に対するヨーロッパの盾であり,拠り所となることを神に命じられています。そのオーストリアがなぜ,危機的瞬間にあって,嵐のなかに翻弄され,平静を失い,途方にくれているのでしょう。それは,オーストリアが不幸にも分別を失い,もうずっと以前から,その存在自体の法的,道徳的基盤をみずから見失い,否認しているからなのです。見失ったものとは,オーストリアの下に統合されているすべての諸民族,すべての信仰を同じように尊重し,同じように権利を与えることです。諸民族の権利は,真なる自然権です。この地上にあるどの民族も,自らの利益のために隣人の犠牲を求める権利はありません。また,隣人のために自己を否定し,犠牲となる義務を負うような民族もありません。自然は,支配する民族も,諌属する民族も知りません。多くの諸民族を政治的に統一しようという連合が強く,長続きするためには,どの民族といえども,この連合のために,みずから大切にしているものをたとえ一部でも失うかもしれない,という恐れをいだくようであってはならないのです。その逆に,どの民族も,隣人から不当な干渉を受けたときには,中央権力に守ってもらえる,というたしかな期待をもてなければなりません。したがって,中央権力は,これを守ることができるだけの力をすぐにでも備えなければなりません。難破の危機が迫るとき,オーストリアにとって,こうした正義の原則は,聖なる碇なのであり,それを無条件に,声高く宣言し,現実にもあらゆる場面で強調していくのに,まだ遅すぎる,ということはないと確信しています。ただし,一瞬たりとも猶予はなりません。もう一時たりとも蹄躇してはならないのです。メッテルニヒが失脚したのは,自由の敵だったからばかりではありません。オーストリアのスラヴ諸民族に対して不倶戴天の敵でもあったからであります。
ボヘミア(ベーメン)国境の外を見つめればすぐに,自然からして,歴史からして,( ①-a )ではなく,( ①-b )にまなざしが向かうのは当然のことです。わが民族の平和と自由,そして権利を保障し,守るのにふさわしく,その使命を負った中心を,( ①-b )に求めるのです。この中心が力をもち,強力であることは,先に述べたように,ボヘミア(ベーメン)の未来のためばかりではないと考えます。⑦もし,ハンガリーが,その本能にしたがって帝国から離脱する,あるいは,ほとんど同じことですが,帝国のもう一つの中心となろうとするならば,それは長きにわたって自由かつ強力であり続けうるものでしょうか。このハンガリーは,国内で諸民族の同権を実現することに関心がないのです。正義であるもののみが,真に自由で強力です。それなのに,皆さんは,その考えるところからして,いまあからさまに,この中心をとりかえしのつかないほど弱めようというばかりか,破壊しようとさえしているのです。ヨーロッパの安寧のために,( ①-b )は地方都市の地位に落ち込んではならないのです!
(出典 “Eine Stimme uber Oesterreichs Anschluss an Deutschland (1848), ” in: Franz Palacky, Gedenkblatter. Auswahl von Denkschriften, Aufsatzen und Briefen aus den letzen funfzig Jahren, als Beitrag zur Zeitgeschichte. Prag, 1874より抄訳)
問1
( ①-a )と( ①-b )に入れるのに適当な都市の名をそれぞれ答えなさい。〔5点〕
問2
下線部②の「君主の連合」は,1815年に神聖ローマ帝国に代わるものとして結成されたものである。その名を答えなさい。〔5点〕
問3
下線部③に関連して,パラツキーの同時代人で,史料批判に基づいた近代歴史学の基礎を築いたドイツの歴史家の名を答えなさい。〔5点〕
問4
下線部④にあるように,18世紀後半,ロシアは南方や東方へ進出を試みた。これにより,ロシアに併合された黒海沿岸の国の名( a )と,日本に使節として派遣された人の名( b )を答えなさい。〔10点〕
問5
下線部⑤に関連して,1861年に,農奴解放を行ったロシア皇帝の名を答えなさい。〔5点〕
問6
下線部⑥に関連して,オスマン帝国が,17世紀後半にオーストリアによるハンガリー支配を認めた条約の名を答えなさい。〔5点〕
問7
下線部⑦に関連して,1848年革命の際に,ハンガリー王国の独立戦争を指導した人物の名を一人答えなさい。〔5点〕
問8
資料には,ドナウ沿岸地域の諸民族の自立をめぐるパラツキーの危機意識が表明されている。ドナウ沿岸地域の諸民族の自立の動きは,この後,20世紀初頭までどのように展開し,国際政治にどのような影響を与えたか,400宇以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,使用した箇所すべてに下線を引きなさい。なお,以下の語句のうち,「ベルリン会議」は,1878年に開催されたものを指す。〔20点〕
第二次バルカン戦争 アウスグライヒ ベルリン会議
サラィエヴォ事件 ブルガリア
〔2〕
次の文章は,シンガポール共和国の初代首相を務めたリー・クアンユー(1923~)が2000年に出版した回顧録からの抜粋である。これを読んで,以下の問に答えなさい。〔40点〕
東南アジア諸国連合(ASEAN)が発足した1967年8月,東南アジア地域は底知れぬ不安に包まれていた。バンコクに集まったインドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポールとタイの外務大臣は,簡素なセレモニーの後で宣言書に署名した。①ベトナム戦争はカンボジアに広がりつつあり,地域のあちこちの国で反政府・共産主義勢力のゲリラ活動が激しさを増していた。ASEANの発足に当たって,私は大それた目標を設けるつもりはなかった。まず地域の平和と安定の促進に寄与し,農業,産業各分野の相互協力や域内貿易の増大につながれば,という程度のことだった。だが,裏に秘められたひとつの目的は,英国そしてアメリカが東南アジアから完全に引き揚げた後の軍事力の穴に備え,各国の団結を強めておくということだった。
発足メンバー諸国にもそれぞれの意園があった。インドネシアは②スカルノの時代が終わったところだったが,今後はスカルノの冒険主義的な姿勢を捨てて平和外交に徹するという方針を,隣国が受け入れ,安心してくれることを期待していた。タイは非同盟運動に参加している周辺の非共産主義諸国とのつながりを探めたいと希望していた。フィリピンは,北ボルネオの領有を主張する場がないかと探していた。そして③シンガポールは,東南アジア地域全体の安全保障を確保するという目標に向け,近隣諸国の理解と協力を求めたいと願っていた。
ASEANは,経済,社会,文化の各分野で目標を掲げていたが,経済協力について容易に進展が見られるだろうと期待する向きはなかった。地域連合の発足は,平和と安全偲障が確かになったという安心感をもたらしはしたが,少なくとも当初の数年間,ASEANから実質的な変化が生まれることはなかった。1972年4月,シンガポールで開かれた第5回ASEAN外相会議でのあいさつの中で私は,提案される域内共同事業の数と,実施に持ち込まれる事業の数の大きなギャップに注意を促した。何しろ,毎年提案される事業が100から200もあるのに対して,実現するのはそのうちせいぜい20程度なのだった。
1975年4月,④北ベトナム軍がサイゴンを陥落させたことで,共産主義ゲリラの活動に対する我々の不安が増大した。ASEAN諸国は,国民の不満の芽を摘むために経済開発をさらに効率的に進める必要があった。初のASEAN首脳会議(サミット)を前に1975年9月にバリ島でスハルト大統領に会ったとき,私は10パーセントの関税引き下げをはじめとする域内貿易自由化の推進をするべきだと説明した。スハルトは乗り気のようだったが,ジャカルタの経済官僚たちは反対の意見を大統蘭に進吾したと後で知らされた。
1976年にバリで開かれたASEANサミットは,不安定な国際情勢の中で域内諸国の団結を示した点で,政治的には成功だったといえよう。また前年断行した( ⑤ )侵攻に対する国際的な批判を受けていたホスト国のインドネシアは,サミットを取り仕切ったスハルトの国際的評価により,少し救われることになった。ただ,当時スハルトはインドネシア語しか話せなかったので,自由なやりとりに参加できないグループ会議よりも,二国間の対話を好む傾向があった。その後1980年代後半になると,スハルトは会話の中に英語の単語やフレーズを交えるようになった。
翌1977年のクアラルンプールの後,ASEANサミットは10年後のマニラまで開かれなかった。1992年にシンガポールが主催国となったときは,私は首相の座を降りていたので参加しなかった。
関税引き下げなど実質的な成果は上げられなかったが,ASEANの場で頻繁に顔を会わせることで各国の首脳や官僚たちは気心を通じさせることができ,その後の様々な二国間問題の解決にも大きな助けになった。堅苦しい会議の場だけでなく,ゴルフを楽しみながらインフォーマルな討議をするという伝統も生まれた。正式なディナーの後でのど自慢を披露し合うこともリラックスした雰囲気作りに貢献した。タイ人,フィリピン人,そしてインドネシア人は皆,なかなか達者な歌い手だったが,我々シンガポール人はそのような場には不慣れで,みるからに不器用であった。
問題解決が困難なときであっても対決は避け七何らかの合意を探る。合意ができなければ妥協案か,せめて「協力を約束」といった語句で会議を締めくくるASEANの伝統はこのような雰囲気の中で醸成されたのだ。
[中略]
⑥1978年から1991年まで,ASEANの団結に影響を与えかねない問題だったのはベトナムのカンボジア侵攻である。1978年12月25日にベトナム軍がカンボジアに攻め込んだのを受けて,シンガポールのラジャラトナムは外務大臣としてASEANの緊急外相会議を招集し,会議は1979年1月12日にバンコクで開催された。ASEAN加盟国の外相は共同宣言を発表してベトナムの行為を強く非難し,直ちにカンボジアからの撤退を要求した。
やがてベトナムがカンボジアにヘン・サムリンを首班とする傀儡(かいらい)政権を樹立すると,旧カンボジア政府が保持していた国連の議席がヘン・サムリン政権のものにならないためにはどうしたらよいか,という問題が持ち上がった。同胞の大虐殺を行ったクメール・ルージュの大罪は消えようがないが,ベトナムの傀儡政権に国際的承認を与えないためには旧政権,すなわち( ⑦ )のクメール・ルージュ政権を支持するより仕方がなかった。
(リー・クアンユー『リー・クアンユー回顧録(下)』小牧利寿訳,日本経済新聞社,2000年より抜粋。一一部表現を改めた。)
問1
下線部①に関連して,北ベトナムへの大規模な爆撃(北爆)を開始した際のアメリカ合衆国の大統領の名を答えなさい。〔5点〕
問2
下線部②をはじめ,各国首脳が参加して,1955年,第1回アジア=アフリカ会議が開催され,平和十原則が採択された。この会議の開催地となったインドネシアの都市の名を答えなさい。〔5点〕
問3
下線部③のシンガポールは,ASEANが発足する約2年前の1965年8月にある国から分離・独立した。1963年9月から1965年8月までシンガポールがひとつの州として加わっていた連邦国家の名を答えなさい。〔5点〕
問4
下線部④に関連して,彗トナム民主共和国の独立宣言から,ベトナムが南北にわかれるまでの経緯を100宇以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。〔10点〕
インドシナ戦争 軍事境界線 フランス
問5
空欄⑤は,インドネシアによる併合の後,スハルト政権崩壊後の1999年に住民投票で独立が決定され,国連による暫定的な統治を経て,2002年に独立を達成した。その国の名を答えなさい。〔5点〕
問6
下線部⑥に関連して,民主カンプチア(民主カンボジア)政権を支援し,1979年2月にベトナムに対して軍事行動を起こした国の名を答えなさい。〔5点〕
問7
空欄⑦に入る政治指導者の名を答えなさい。〔5点〕