東京外国語大学 2009年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 次の文章は,日本と中国との間に起こった紛争に関して,国際連盟が派遣した調査団の報告書の一部である。調査団は東京・上海・南京を経て,中国東北地方〔以下の報告書中では満州〕で調査した後,1932年10月2日,報告書を公表した。この報告書の文章を読んで,問に答えなさい。(60点)

 本紛争が内包している諸問題は,しばしば言われているほど簡単なものではないことは,明らかであろう。それどころか問題はむしろ非常に複雑であり,一切の事実及びその歴史的背景についての詳細な知識を持っているものだけが,これに関する明確な意見を表明する資格があるといえる。この紛争は,一国が①国際連盟規約の規定する調停の機会を事前に十分に研究することなしに,他の一国に宣戦を布告したというような事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような単純な事件でもない。なぜかといえば,満州には世界の他の地域では類例を見ない多くの特殊事態があるからである。
 本紛争は双方とも連盟の一員である二国間において,フランスとドイツを合わせた面積を有する地域に関して発生したものであり,この地域に関しては日本と中国双方がそれぞれさまざまな権益を持っていると主張し,しかもこれらの権益はその一部のみ国際法により明瞭に定義されているにすぎない。②この地域は法律的には完全に中国の一部ではあるが,当該地域にはこの紛争の根底にある事項に関して,日本と直接交渉を進めるに十分な自治権をもつ地方政権が存在する。
 日本は③海岸より満州の中心に達する鉄道及びその付属地を支配しているだけではなく,その財産保護のために約1万の兵力を維持している。さらには必要な場合には,条約上これを1万5千に増加する権利があると主張している。また日本はすべての在満日本人に対して裁判権を行使し,さらに満州全土にわたる領事館警察を維持している。
 問題を討議するものは,これらの事実を考慮しなければならない。宣戦を布告することなしに,疑いもなく中国の領土である広大な地域が日本の軍隊によって力ずくで押収,占領され,この行動の結果として,当該地域が中国の他の部分から分離させられ独立を宣言するに至ったことは事実である。日本はこの事実を完了させるに至った方法が,この種の行動の防止を目的とする国際連盟規約,④ケロッグ条約及びワシントン九か国条約の義務に合致したものであると主張している。〔中略〕
 日本の説明によれば,その一切の軍事行動は正当な自衛行為であり,この権利は上記の多国間諸条約中に包含されており,国際連盟理事会のいずれの決議においても奪われたことはないとされる。さらにまた,東三省において中国の旧政権に代わった新政権は,その成立が地方人民の行為によるものであり,彼らは自発的にその独立を宣言し,中国との一切の関係を絶って自己の政府を樹立したものであって,正当なものとみなし得るものであるとされる。日本の主張によれば,このような真正な独立運動は,いかなる国際条約もしくは国際連盟理事会の決議によっても禁じることはできず,また,このような運動がすでに行われたという事実は,九か国条約の適用を著しく緩和させ,連盟によって調査されつつある問題の全性質を根本的に変更させるものであるとされる。
 この特別な紛争を非常に複雑化し,深刻化させているのは,この自らを正当であるとする日本側の主張である。この問題点について論議することは,⑤本調査団の役割ではないが,本調査団は一貫して連盟が両紛争当事国の名誉,威厳及び国家的利益を損じることなく紛争を解決させるため,十分な材料を提供することに努めてきた。批評だけでは,解決を期するのは困難である。調停には実際的努力をすることが必要である。我々は満州における過去の事件に関する真相を把握するために苦心してきたが,率直にいえば,以上は我々の仕事のわずか一部分であり,しかも決して最も重要な部分ではないことを認めている。我々は使命を行うにあたり,終始,両国政府に対して紛争を調停するため,国際連盟の援助の提供を申し入れた。今や本委員会はその使命を終了するにあたって,常に正義と平和をもって,満州における日本と中国の恒久的利益を確保するため,我々の提議を連盟に付託することにする。
 単なる原状回復が問題の解決とはなり得ないことは,ここまで我々が述べてきたところによって明らかである。現在の紛争が⑥昨年9月以前における状態から発生したことを考えると,その回復(原状回復)は紛糾を繰り返す結果を招くと思われる。そのようなことはすべての問題を理論的に取り扱うものであったとしても,現実の情勢を無視するものである。
 〔すでに述べたように〕⑦満州における現政権の維持及び承認も同様に不満足なものであろう。このような解決は現行の国際的義務の根本的原則とも極東平和の基礎であるべき両国間の良好な理解とも両立するものとは認められない。これは中国の利益に対立し,また満州人民の希望を無視するだけではなく,結局は日本の永遠の利益となるかどうかについても少なからず疑問である。現政権に対する満州人民の感情については,全く疑問の余地はない。そして中国は,東三省の完全な分離を最終的解決としてすすんで受け入れることはないだろう。〔後略〕
(The Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese Disputeより抜粋)

問1.
 下線部①について,国際連盟の本部が置かれていた都市の名を答えなさい。(5点)

問2.
 下線部②に関連して,1689年に中国がロシアとの間で国境を定めた条約の名を答えなさい。 (5点)

問3.
 下線部③について,(イ)この鉄道の名称と,(ロ)日本がこの鉄道の利権を獲得した日露戦争後の講和条約の名を答えなさい.(10点)

問4.
 下線部④について,この条約は一般に不戦条約と呼ばれるが,アメリカのケロッグ国務長官とともに,この条約成立の中心となったフランスの外務大臣の名を答えなさい。(5点)

問5.
 下線部⑤について,この調査団を率いた人物の名を答えなさい。(5点)

問6.
 下線部⑥について,「昨年9月」に起こった満州事変のきっかけとなる事件の名を答えなさい。(5点)

問7.
 下線部⑦について,この「現政権」において,日本が執政(後に皇帝)として擁立した人物の名を答えなさい。(5点)

問8.
 第一次世界大戦の結果成立した国際秩序が崩壊し,第二次世界大戦に至る過程を400字以内で説明しなさい。その際,以下の詩句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(20点)

世界恐慌  ラインラント進駐  エチオピア併合  盧溝橋事件
ヴェルサイユ体制・ワシントン体制  日独伊三国防共協定

〔2〕

 次の文章は,チェコスロヴァキア出身の作家ミラン・クンデラが1982年,亡命先のパリで発表した論説「誘拐された西欧,あるいは中央ヨーロッパの悲劇」の一部である。クンデラは,1968年,「プラハの春」の自由化運動に積極的にかかわったために,その後,国内で作品発表の機会を奪われた。1975年,フランスに出国した際に,チェコスロヴァキア国籍を剥奪され,亡命者としてフランスで活躍し続けた。1989年以後も,そこに留まっている。
 この論説でクンデラは,「ロシアとドイツの間の地域」を「中央ヨーロッパ」と呼びながら,これを「文化的には西,地理的には中央,政治的には東」に位置する地域と定義し,「中央ヨーロッパ」が西欧文明に属していることを強調している。
 この文章を読んで問に答えなさい。(40点)

 私が中央ヨーロッパと呼ぶヨーロッパの矛盾をみれば,この35年間,ヨーロッパの劇的状況が,なぜこの地域で集中して起こったのか,理解する一助となるだろう。①1956年のハンガリーにおける偉大な反乱とそれに続く血なまぐさい虐殺,1968年のプラハの春とチェコスロヴァキアの占領,1956年,1968年,1970年,そして②近年のポーランドの反乱である。その劇的な内容と歴史的な衝撃からして,「地理的ヨーロッパ」の西や東で起こったことは,中央ヨーロッパで次々に起こった反乱に比するべくもない。プラハやワルシャワで起こった出来事は,東ヨーロッパ,つまりソヴィエト・ブロックの,共産圏のドラマとみなすことは本質的にもうできない。それは,西欧のドラマ,つまり誘拐され,追いやられ,洗脳されながらも,みずからのアイデンティティを守ろうとしている西欧のドラマなのである。
 中央ヨーロッパ,つまり西欧の東の境界では,誰でもが,ロシアの力が危険であることに,特に敏感であった。中央ヨーロッパとは,文化的多様性に富んだヨーロッパの凝縮したもの,原ヨーロッパ的ヨーロッパであろうとしてきた。それは,最小限の空間に最大限の多様性というたった一つの原理から考えうる,諸国民のヨーロッパの原型である。中央ヨーロッパが,対極にある原理に立脚するロシアに直面して,脅威を感じないことがあろうか。ロシアの原理とは,最大限の空間に最小限の多様性,である。
 オーストリア帝国には,中央ヨーロッパを統合された強力な国家にまとめあげる機会があった。しかし,オーストリアもまた,倣慢な汎ゲルマン的ナショナリズムと,中央ヨーロッパ的使命に引き裂かれていたのであった。オーストリアは,同等な諸国民からなる連邦を作り上げるのに失敗したし,その失敗は,ヨーロッパ全体の不幸であった。不満を持って,中央ヨーロッパの諸国民は,③この帝国を1918年に解体した。不十分な点もあったが,それは代えがたいものであった,ということは,理解されなかったのである。こうして,第一次世界大戦後,中央ヨーロッパは弱小諸国の地域となり,脆弱だったからこそ,まずはヒトラーに征服されそして最終的にはスターリンの勝利がもたらされたのであった。おそらくこうした理由から,ヨーロッパの記憶の中では,これらの国々は,常に危険な問題の源のように思われてきたのであった。
 20世紀初頭,中央ヨーロッパは,政治的には弱かったものの,大きな,おそらく最大の文化の中心であった。( ④ )とマーラーの町,ウィーンが重要だったことはすぐに認められるだろう。しかし,その重要性と独創性については,中央ヨーロッパ文化にともに参与し,責献した他の国々や町々の背景を抜きにしては,ほとんど理解することができない。カフカとハシェクのいたプラハは,ムージルとプロッホのウィーンと,文学上の一対をなしていた。非ドイツ語世界の文化的ダイナミズムは,1918年のあとにも,よりいっそう力強くなった。このような問いがありうるだろう。こうした爆発的な創造は,すべて偶然,同じ地域で起こったに過ぎなかったのだろうか。それとも,それは長い伝統,共通の過去に根を持つものなのだろうか。あるいは別の言い方をすれば,中央ヨーロッパは,独特の歴史を持った,真に文化的な輪郭を持っているのだろうか。そのような輪郭が存在するとしたら,それは地理的に定義できるのだろうか。そして,その境界は何なのだろうか。
 境界をはっきり引こうとすれば,それは無意味である。中央ヨーロッパは国家ではない。それは文化であり,運命である。その境界は想像されるもので,新しい歴史的状況が現れるたびに引かれ,引きなおされるのである。中央ヨーロッパは政治的境界ではなく(政治的境界は,真正なものではない。それは常に征服,侵略,占領によって強制されるものである),共通の状況によって定義され,決定されるのである。それは共通の記憶,共通の問題,闘争,共通の伝統の宿る領域を画する想像上の境界線で,いつも変化し,それに沿って,常に新しい方法で諸民族が結集し,再編成されるのである。
 ユダヤ人の天才たちの影響が,中央ヨーロッパよりも色濃く刻印されている地域はない。どこでも異質な存在でありつつ,どこでも根をおろし,民族紛争から超然としながら,20世紀のユダヤ人は,徹底したコスモポリタンであり,中央ヨーロッパをひとつにまとめあげる要素であった。彼らは,知性のうえで接着剤の役割をはたし,中央ヨーロッパ精神の集約された形であり,精神的統合の創造者であった。だからこそ私はユダヤ人の遺産を愛するのだし,情熱と懐しきをもってわが物のように愛着を感じるのである。
 ユダヤ人が私にとって貴重である理由はまだある。彼らの運命のうちに,中央ヨーロッパの運命が集約され,映し出され,そこに象徴的なイメージを見出しているように思われるのだ。中央ヨーロッパとは何だろうか。⑤ロシアとドイツの間の諸小民族の不安定な地域。私は,「小さな諸民族」という語を強調したいと思う。ユダヤ人こそは,小さな民族,典型的な小さな民族以外の何者でもない。諸帝国の支配を生き延び,破壊を繰り返しながら流れ行く歴史を生き延びてきた小さな民族の,そのひとつ。しかし,小民族とは何だろう。定義してみよう。小民族とは,その存在そのものがいつでも疑問に付されることのありうる,そうした人々のことである。⑥小さな民族は消え去ることがありうるし,そのことを知っている。フランス人,ロシア大 あるいはイギリス人は,自分の民族が生き延びるかどうか問うようなことに慣れていない。それらの国歌は,栄光と不滅を歌うばかりである。ところがポーランド国歌の出だしはこうだ。「⑦ポーランドいまだ滅びず」……。
(“Un Occident kidnape ou la tragedie de L’Europe centrale,”Le Debat,Nov.1983.より抄訳)

問1.
 下線部①に関連して,この年の2月にソ連共産党大会において,スターリン批判を行った共産党第一書記の名を答えなさい。(5点)

問2.
 下線部②について,この「反乱」のなかから誕生した自主管理労働組合の名を答えなさい。(5点)

問3.
 下線部③に関連して,オーストリア帝国が,オーストリア=ハンガリー二重帝国に改編された経緯について,100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(10点)

  プロイセン=オーストリア戦争 アウスグライヒ ハンガリー王国

問4.
 空欄( ④ )に入る,ウィーンを拠点に活躍した精神分析の研究者で,『夢判断』の著者の名を答えなさい。(5点)

問5.
 下線部⑤に関連して,1939年にドイツとソ連が締結し,その秘密条項で,「中央ヨーロッパ」の勢力圏分割を決めた条約の名を答えなさい。(5点)

問6.
 下線部⑥に関連して,ナチス・ドイツはユダヤ人の絶滅政策を遂行した(ホロコースト,ショアー)。計画的集団的絶滅政策を遂行した強制=絶滅収容所のうち,最大の収容所の跡地は,絶滅政策の記憶を留めるために,現在,博物館とされ,ユネスコによって「負の世界遺産」に指定されている。この収容所の名を答えなさい。(5点)

問7.
 下線部⑦について,この国歌は,ナポレオン戦争中に,ポーランド国家の復興を願って歌われたものである。18世紀末にポーランドを分割した3つの国の名を全てあげなさい。(5点)

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