東京大学 2007年度 世界史過去問

世界史

第1問

 古来、世界の大多数の地域で、農業は人間の生命維持のために基礎食糧を提供してきた。それゆえ、農業生産の変動は、人口の増減と密接に連動した。耕地の拡大、農法の改良、新作物の伝播などは、人口成長の前提をなすと同時に、やがて商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面、凶作による飢饉は、世界各地にたびたび危機をもたらした。

 以上の論点をふまえて、ほぼ11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。解答は解答欄(イ)に17行以内で記入し、下記の8つの語句を必ず一回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付しなさい。

 湖広熟すれば天下足る アイルランド  トウモロコシ 
 農業革命       穀物法廃止   三圃制
 アンデス       占城稲

第2問

 歴史上、人々はさまざまな暦を用いてきた。暦は支配権力や宗教などと密接に関連して、それらの地域的な広がりを反映することが多かった。また、いくつかの暦を併用する社会も少なくない。歴史上の暦に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 西アジアにおける暦の歴史を概観すると、(a)古代メソポタミアや古代エジプトで暦の発達が見られ、のちにヨーロッパヘ多大な影響を与えた。また、(b)7世紀にイスラーム教徒は独自の暦を作り出し、その暦は他の暦と併用されつつ広く用いられてきた。近代になって、西アジアの多くの地域には西暦も導入され、複数の暦が併存する状態となっている。

 下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について、3行(90字)以内で説明しなさい。

(b) イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か、2行(60字)以内で説明しなさい。

問(2) 現在、私たちが用いている西暦は、紀元前1世紀に古代ローマで作られ、その後ローマ教皇により改良された暦を基礎としている。しかし、ヨーロッパにおいても、時代や地域によって異なる暦が用いられており、しばしば複数の暦が併用された。

 以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) フランスでは、18世紀末と19世紀初めに暦の制度が変更された。これらの変更について、2行以内で説明しなさい。

(b) ロシアでも、20世紀初めに暦の制度が変更された。この変更について、1行以内で説明しなさい。

問(3) 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清代の中国における暦法の変遷について、4行以内で説明しなさい。

第3問

 19世紀から20世紀には、世界各地で植民地・領土獲得競争や民族主義運動が広範に展開した。こうした動きに関する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) イギリスは19世紀初めからマレー半島に植民地形成を進め、20世紀初めにはイギリス領マレー植民地が完成した。その中で、海峡植民地として統合された地域内の港市の名称を二つ記しなさい。

問(2) 独立後のアメリカ合衆国は領土を徐々に太平洋岸にまで広げ、西部にも多くの人々が移住するようになった。この間、アメリカ先住民は土地を奪われ、居住地を追われた。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 先住民をミシシッピ川以西の保留地に迫いやることになった「インディアン強制移住法」が制定された当時のアメリカ合衆国大統領は誰か。その名を記しなさい。

 (b) 当時の白人たちは、アメリカの西部への拡大を神から与えられた「使命」と考えていたとされるが、この「使命」を端的に示す用語を記しなさい。

問(3) 奴隷貿易がその終焉を迎える中で、北米などの奴隷を解放しアフリカ大陸の開拓地に入植させる試みがなされた。西アフリカでは、アメリカ植民協会によって開拓された解放奴隷の居住地が、19世紀半ばに共和国として独立した。この国の名称を記しなさい。

問(4) 19世紀半ばから後半にかけて、アフリカ内陸部における植民地建設にさきがけるかたちで、探検が行われた。こうした探検に従事した探検家の中に、現在までその名をアフリカにおける都市の名称として残しているイギリス人宣教師がいるが、その名を記しなさい。

問(5) エジプトでは1880年代初めに武装蜂起が起こったが、イギリスはこれを制圧してエジブトを事実上の保護下においた。その後、イギリスはスーダンに侵入し、そこでも強い抵抗運動に出会ったが、1899年には征服に成功した。エジプトにおける武装蜂起の指導者名(a)とスーダンでの抵抗運動の指導者の名(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

問(6) ルワンダでは、少数派のツチ人と多数派のフツ人が激しく対立する内戦の中で、1994年には大量虐殺が引き起こされた。この事件の背景には、かつての西欧列強による植民地支配の影響が認められる。19世紀末に現在のルワンダ、ブルンジ、タンザニアを植民地化し、ルワンダではツチ人にフツ人を支配させたヨーロッパの国はどこか。その名称を記しなさい。

問(7) カージャール朝下のイランでは、パン=イスラーム主義の影響の下で、イギリスが持つ利権に抵抗する運動が起こり、民族意識が高揚し、1905年には立憲革命が起こった。この運動に影響を与えた思想家の名(a)と、イギリスが利権を有していた主要な商品作物の名称(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

問(8) アフリカでは西欧列強による植民地化が進んだが、19世紀末にイタリア軍を打ち破り独立を維持した国がある。この国は1936年にムッソリーニ政権下のイタリアに併合されたが、まもなく独立を回復した。この国の名称を記しなさい。

問(9) 第一次世界大戦後の東ヨーロッパには、「民族自決」の原則に基づき新しい国民国家が数多く生まれた。だが、その国境線と民族分布は必ずしも一致しておらず、民族紛争の火種を残した。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ドイツ人が多数居住していたことを理由に、ナチス=ドイツが割譲を要求した、チェコスロヴァキア領内の地域の名称を記しなさい。

 (b) この割譲要求をめぐって、1938年に英・仏・伊・独の首脳によるミュンヘン会談が開催された。このときフランスとともに対独宥和政策をとったイギリス首相の名を記しなさい。

問(10) 中国で辛亥革命が起こると、外モンゴルでは中国からの独立を目指す運動が進み、その後ソ連の援助を得て、社会主義のモンゴル人民共和国が成立した。ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について、1行(30字)以内で説明しなさい。

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