〔1〕
次の〔A〕~〔E〕の文章は,『ペルシア旅行記』で知られるフランス人宝石商シャルダンが,17世紀後半,イラン高原のある都市について著した書物から抜粋したものである。この文章をよく読んで,以下の問に答えなさい。〔60点〕
〔A〕
以上が東方世界全域の中で最も大きく,最も美しい町( ① )の町の詳細である。(中略)この大都会には,②キリスト教徒,ユダヤ教徒,マホメット(イスラーム)教徒,異教徒,拝火(ゾロアスター)教徒と言ったあらゆる宗教を信仰する住民がいる。またここには,世界中から来た貿易商が集まっている。ここはまた,全東方世界で最も学問の栄えている町であり,ここから東方世界全体に,とりわけインドに学問が広がっていく。私の覚え書には( ① )の市壁内には,162のモスク,48の学院1802の隊商宿,273の浴場,12の墓地があると書き記されている。(中略)このように人口の多い都会で,何とも感心させられる点は,この町が,海も川もないのに,豊富で贅沢な生活を続けているということだ。この町では,一切のものは,例外なく,駄獣の背に乗せられて運び込まれるのであるが,駱駝が800プザン(重さの単位)の荷物を運ぶことで.この町に運び込まれて来ないようなものは何1つとしてない。ペルシア人はこの動物を「陸上の舟」と呼んでいる。(中略)ここで思い出す必要があるのは,東方の人びとの食生活のつつましさである。中でもペルシア人は,トルコ人よりもはるかに少食で,尊敬に価する。何しろそれに,もし( ① )でパリやロンドンでのように食卓を一杯料理で覆うなら,食糧を今よりずっと遠くから取り寄せねばならなくなっていることだろう。ペルシア人は夕食にしか肉は食べず,肉は必ず米とそれに野菜を添えてしか食べない。(中略)それゆえ,ペルシアでは,ヨーロッパの国々での肉の消費に比して,10分の1しか消費していない,と一般論として言えるくらいなのだ。
〔B〕
(以下は,町の東側の記述)この道には「クルチの長官」という名を持つ隊商宿がある。クルチとは,ペルシアで最も古い軍団のことである。また,「アベルガ二エ」という名の隊商宿と,かつてのクルラル=アガシ,即ち「奴隷たちの将軍」だったシアウシュ・カンの屋敷がある。クルラルはトルコにおける( ③ )のように,ペルシアで高く評価されている軍団である。
(中略)イエズス会はこの地区(城外区)に施療院を持っているが,それは彼らがいかに努力してみても,他のローマ・カトリックの宣教師たちのように( ① )の市中に修道院の建物を手に入れることがかなわなかったからである。イエズス会士は1645年にリグルディ神父なる人物を長にいただいて,ペルシアにやってきた。この人はローマ教皇とフランス王その他何人ものキリスト教世界の大立者の推薦状を持ってきたが,それに見合った贈物を一緒に用意していなかった。贈物がなければ東方世界では決してちゃんと受け入れて貰えない。この欠落の穴埋めにリグルディ神父は,トルコ大帝の帝国を破滅させるための,フランスとペルシアの途方もない,とうてい実行不可能な同盟を提案した。
〔C〕
このバーザール(レレベグのバーザール)に沿って2つの隊商宿がある。これは私がこれまでに述べたどの隊商宿も及ばないほど大きい。1つは「王の隊商宿」と呼ばれる。すぐ隣にある浴場と同じく王家の創立になるものだからである。ここではキルマン(ケルマーン)とメチェド(マシュハド)というペルシアの2コの大きな町で作られた磁器が売られている。これらの町では④非常に精巧な磁器が焼かれ,日本や中国製だといってもとおるほどである。何しろその素材は内も外も琺瑯(ほうろう)なのである。だから,人が確かなこととして言うには,オランダ人はこれを中国製の磁器と混ぜ,中国磁器としてヨーロッパで売りさばいているそうだ。もう1つの隊商宿は,バーザールと同じように「レレベク」と名付けられている。ここには⑤インド人が一杯いて,インド産の贅沢な商品が満ちあふれている。バーザールも同様である。ここでは,絹織物,絹製や刺繍の入った衣類だけを扱っている。
〔D〕
この界隈で注目すべきその他の場所は,まず⑥サンジェリエ・モスクで,ここにはイスマエル天王の名前で記された金文字の碑文がある。このことから,この建物と,それにポルトガル人の布教団であるアウグスティノ会士たちの宿舎もこの王が建てたものと信じられる。この宿舎は大きな王室の屋敷で,たくさんの庭があり,(中略)百人も修道士のいるような修道会でも十分に入れる大きさである。この屋敷の大部分には誰も住んでいない。何しろ今では修道士は3,4人しかいないし,それに7,8人の召使いがいるだけだからだ。( ① )に拠点を構えに来た時は,彼らははるかに大勢だった。当時はポルトガル人が金をあふれるほどに持っていた時代だったし,誰も知るとおり,あの国では修道院が富の大部分を所有しているのだ。
(中略)その隣に⑦オランダ会社の商館がある。これもまた立派な邸で,亭や池,それに水の流れる小川の備わった大きな庭園がある。大門は大きく高く,会社の紋章と標語を頂いている。この屋敷はかつてアリー=ミルザ・ベクという名の人物のものだった。この人はアッバース大王の怒りを買い,王は彼を手討ちにし,その財産を没収した。そのうちから,この家をオランダ会社に与えたのである。会社は当時( ① )にヒューベルト・ヴィズ二クという名の代表を送り,交易の自由を要求しているところだった。
〔E〕
有能な教皇で長く,つつがなく統治を行なったクレメンス8世がその使節としてカルメル修道会士をペルシアへ派遣したのは,1604年のことだった。(中略)無辺の企図を持ち,味方も援助も全くないままに大戦争を戦っていたアッバース大王は,親交を求めてやってくる一切の者を,きわめて好意的に受け入れた。その大敵であるトルコ大帝の敵である場合はとりわけそうであった。ヨーロッパ人がそうであることを被はよく知っていた。その中でも教皇がかの強大なオスマン国家を滅ぼすこと,あるいは,少なくともその拡大を防ぐことに最も関心を持っていると見なしていた。このため・彼は教皇の使節を大層丁重に受け入れた。
(中略)教皇がわがものとしているおかしな特権や大部分のキリスト教徒の意識の上に彼が有する権限について,ペルシア人は一度として知らされたことがない。教皇は世俗の君主であり,ちょうどバグダードのカリフたちがマホメット教徒の君主たちに尊崇されていたように,イエス・キリストの後継者という資格でキリスト教徒の君主中で第1位を占めていると説明されている。しかし,教皇が無謬であるという理解しがたい主張には宣教師たちは一度として触れて来なかった。⑧そんなことを言えば,ペルシア人の良識にあまりに激しい衝撃を与えるだろうし,自分たちが伝道するためにやってきた宗教が馬鹿げた,矛盾に満ちたものに見られたくないのである。
(羽田正編著『シャルダン『( ① )誌』研究』東京大学出版会1996年より抜粋。なお,表現は一部改めた)
問1
( ① )は,この当時,人口50万を数え,世界でもっとも繁栄した都市の一つである。( ① )の都市の名と,この時代にこの都市を首都とした王朝の名を答えなさい。〔5点〕
問2
下線部②に関連して,この都市はこの時代,ペルシア語を中心としながらも,アラビア語やトルコ語など,複数の言語が使用される多言語社会であった。一方で,シャルダンの祖国フランスでは,ルイ14世の治世中にフランス語がヨーロッパの国際語としての地位を獲得していった。フランス語の統一・純化に重要な役割を果たした,宰相リシュリューによって創設された組織の名を答えなさい。〔5点〕
問3
( ③ )に関連して,イスラーム世界では,アラブのマムルークなど,奴隷軍人制度が古くから知られていた。14世紀以降,バルカン半島のキリスト教徒の農民子弟を徴集することで確立され,この頃にはトルコ化・世襲化も始まっていたオスマン朝の奴隷軍人からなる常備軍の名を答えなさい。〔5点〕
問4
下線部④に関連して,宋代以降に窯業都市として発展し,この時代には海外輸出向けの高価な陶磁器も生産していた中国江酉省北東部の都市の名を答えなさい。〔5点〕
問5
下線部⑤について,この頃,この都市に居住するインド人の数が増加したが,その多くはヒンドゥー教徒の商人や金融業者であった。当時,これらインド人の出身地であるインドのムスリム王朝の皇帝の位にあり,王朝の最大版図を実現する一方,シズヤの復活など,イスラーム的な政策を進めた人物の名を答えなさい。〔5点〕
問6
下線部⑥に関連して,この都市の「王の広場」には,「王のモスク」をはじめとする壮麗な建造物が建てられていた。隣接するオスマン朝でも,スレイマニエ・モスクをはじめとする大建造物が君主の主導で建設されており,この時代のイスラーム建築の隆盛ぶりがうかがえる。この頃,インドの皇帝が亡き妃の墓廟として,広くイスラーム世界から優れた建築家・職人を集めて建てさせた,インド=イスラーム建築を代表する建造物の名を答えなさい。〔5点〕
問7
下線部⑦の会社とは,1602年に創設されたオランダ東インド会社のことである。オランダは,ポルトガルやイギリスと競合しつつ,アジアでの貿易の拡大をもくろみ,日本,東南アジア,インド,ペルシア湾の海港都市に次々と商館を置いた。オランダ東インド会社が東南アジア地域について貿易の独占を試みた商品の名を答えなさい。〔5点〕
問8
下線部⑧から読み取ることができるように,シャルダンは教皇率いるカトリックに対し,厳しい批判の目を向けている。シャルダンはパリに戻った1680年からほどなく,イギリスへの亡命を余儀なくされる。こうした点を踏まえ.シャルダンの属した宗派は何だと考えられるか。その宗派の名を答えなさい。〔5点〕
問9
17世紀後半にシャルダンが書いたこの文章は,西アジアから南アジアにかけて,共通の特徴をいくつか備えた広域国家が台頭し,その一方でヨーロッパ諸国がインド海域,アジア諸地域の貿易に乗り出す,「世界の一体化」の進展を背景としている。シャルダンが記述するこの都市( ① )の繁栄の世界史的な背景について,以下の語句を必ず使用し,400字以内で説明しなさい。その際,シャルダンの記述,問1~8の設問を参考にしなさい。〔20点〕
ムスリム国家 東インド会社 商品 鞄 修道会
(これらの語を使用した箇所すべてに下線を引くこと)
〔2〕
次の文章は,アメリカ人研究者が「東南アジア」の起源について論じた文章からの抜粋である。これを読んで,以下の問に答えなさい。
「東南アジア」が意味ある想像物となったのは,きわめて最近のことである。(中略)東南アジアが,ひとまとまりの有意味な政治的単位として登場したのは,ようやく1943年夏にインド総督ルイス・マウントパッテンが東南アジア軍司令部(South-East Asia Command)を創設したときのことにすぎない。それは古くからあるインド軍総司令部から分かれ出たものであった。しかし,この司令部の基地は〔当時英領セイロンの〕キャンディにおかれその管轄地域はセイロンと英領インドの東北国境地帯をふくみ(どちらも現在は「東南アジア」ではない),オランダ領東インドもフィリピンも除外していた(ただし前者は1945年7月以降に編入される上そうとはいえ,明らかに「東南アジア」という名前は,歴史上初めて単一の権力が,すなわち①ヒロヒトの軍隊が,英領ビルマから旧スペイン領の米領もフィリピンにいたるまでの全地域を事実上支配したことへの応答であった。(中略)
どうして「東南アジア」という概念が長い間なかったのだろうか。そして,どうして現れるやいなや瞬く間に広まったのだろうか。まず第一に,近東・中東のオスマン朝,「ラテン」アメリカのハプスブルク家やブルボン家,「インド」のムガル朝,「中華」を蜃気楼のようなものではあるが境界づけられたものとしてきた北京の代々の王朝のような長年にわたるヘゲモニー権力が,ここ東南アジアには存在しなかった。つぎに,この地域の宗教が実に多様であることがある。ヒンドゥー教と仏教を混淆させた文明は,(13世紀から)イスラームと(16世紀から)キリスト教によって駆逐されたが,その遺産はいまでも世界の驚異のうちに数えられている。すなわち,カンボジアのアンコール・ワット,ジャワのボロブドウール,シャムのアユタヤ,ビルマのパガンとムロハウンがそれである。今日,ビルマ,シャム,ラオス,カンボジアはその程度にちがいはあれ仏教国である。マレーシア,インドネシア,ブルネイはイスラームが優勢である。フィリピンはおもにカトリックであるが,ヴェトナムは儒教,道教,大乗仏教から多くを受け継いでいる,といった具合である。しかし,最も大きな要因は,ヨーロッパの帝国主義列強がこの地域をまだら模様に染め上げた奇妙な歴史にある。お目にかからないのはイタリアとベルギーくらいのものだ。イギリスがビルマ,②マラヤ,シンガポール,北ボルネオを,オランダが東インド諸島を,ポルトガルが東ティモールを,スペインとアメリカがフィリピンを,フランスがラオス,カンボジア,ヴェトナムをそれぞれ支配した。それ以外には,半独立を保ったシャムがある。シャムは.イギリスとフランスというライバル同士の植民地にはさまれていたおかげで,緩衝国としてかろうじて生き残ることができた。さらに重要なことに,このまだら模様の帝国主義支配は,アフリカの大部分でそうだったのと異なり,19世紀後半に殺到したわけではなく,何世紀にもまたがったものである。( ③ )人と( ④ )人は封建時代の16世紀後半に到来した。( ⑤ )人は重商主義の17世紀にやってきた。イギリス人は啓蒙主義の18世紀に,( ⑥ )人は産業時代の19世紀に,そしてアメリカ人はモータリゼーション時代の20世紀にやってきた。それぞれの帝国主義列強は,たがいの競争相手に嫉妬し敵対心を昂じ合ったため,自分の植民地を他国の植民地から切り離そうとやっきになった。そういうわけで,20世紀の初めには.バタヴィア(ジャカルタ)の教養ある若者は,彼らの遠い先祖であれば密接な結びつきのあったはずのカンボジアのことより,アムステルダムのことをよく知っていたのだし,マニラの若者は,南シナ海を渡ればすぐそこにあるヴェトナム海岸地方のことより,マドリードやニューヨークのことをよく知っている,ということになったのである。(中略)
けれども,20世紀が幕を開けるまでには,歴史上初めてこの地域に国境線が引かれるようになっていた。それには,⑦メルカトル伝来の地図作製法のおかげが少なからずある。今日のビルマは,1885年から1937年の間,唯一仏教が支配的な地方として植民地インドに完全に組み込まれていた。しかしこの時期に,ビルマを包みこむ切れ目のない国境線が地図にしるされそれは今日にいたるまでおおよそそのまま保たれている。パリ政府は,どこで中国が終わり,どこで仏領ヴェトナムのトンキンが始まるかをはっきりと印づけた。千年間にわたって今日のヴェトナムのうちかなりの部分が中華帝国に組み入れられていたことはもちろんのこと,⑧何世紀にもわたって中国とヴェトナムの間でつづいていた相互の共生関係までもが消し去られたのである。(中略)
太平洋戦争,戦後の急速な脱植民地化,冷戦の勃発は,あっと言う間の出来事だった。日本にかわってこの地域の覇権を一手に握ろうとするアメリカの試みは執拗につづいた。1942年前半から1945年の間にこの地域のまだら模様の帝国主義列強を襲った突然で屈辱的な崩壊,1943年以降ますます自暴自棄になっていった日本軍による「原住民」の軍事訓練,時には遠くから連合国の支援を受けていた抗日ゲリラの抵抗,ビルマとフィリピンにおける日本軍と連合国軍との壮絶な戦闘,これらすべてのことのために,1945年8月に日本が降伏した後,ヨーロッパ列強が以前の地位にもどることはもはやできなくなっていた。アジアとアフリカで植民地にされた地域で,これと似たようなことが起こったところは他にない。さらにまたこれは,スペイン支配下のアメリカ大陸で140年ほど前にそうだったように,東南アジアは,独立を――さらにはそれ以上を――求める武装闘争があたりまえであったただひとつの植民地地域だったということでもある。妙なことに,このプロセスはラテンアメリカの最西端ともいえるフィリピンで1896年に始まった。アンドレス・ボニフアシオ,エミリオ・アギナルド,アポリナリオ・マビニらが率いる,(アジアから見て)先んじてもいれば(ラテンアメリカから見て)遅ればせでもある蜂起は,⑨1898年に自由フィリピン共和国を打ち立てたが,すぐさまアメリカにたたきつぶされた。ビルマ,ラオス,カンボジア,ヴェトナム,インドネシア,さらにはある程度まではマラヤでさえ,独立を目指して――少々苦い結果が待ってはいたが――実際に戦い,そのなかでたがいの闘争をますますはっきり知るようになった。すでに1947年前半に,タイの進歩的な文民首相であったプリーディー・パノムヨンは,軍部に打倒される前のほんの短い時期の間に,東南アジア連盟(Southeast Asian League)を提唱し,帝国主義に対抗するための相互援助の地域的ネットワークをつくろうとしたが,その試みは時期尚早に終わった。
とはいえ,東南アジアを現在のような想像された現実に仕立て上げるまでの長いプロセスにほんとうの意味ではずみをつけたのは,⑩アジアでの冷戦の幕開けであった。(後略)
(ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊 ナショナリズム・東南アジア・世界』糟谷啓介・高地薫ほか訳,作品社2005年より抜粋。一部表現を改めた)
問1
下線部①について,日本軍は太平洋戦争初期から東南アジア地域の大部分を次々と占領し,支配下に置いた。この日本軍の東南アジア地域侵攻の経緯と,それに対する現地の人々の対応について100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。〔10点〕
「大東亜共栄圏」 抗日ゲリラ スカルノ
問2
下線部②に関連して,現在,マレーシアでは全人口の約4分の1を華人系が,約7%をインド系の人々が占めている。彼らのルーツは,おもにイギリス植民地時代の労働移民であるが,ある天然資源の採掘に華人系の人々の多くが労働力として従事した。この天然資源の名を答えなさい。〔5点〕
問3
空欄③~⑥に当てはまるヨーロッパの帝国主義列強の国名を答えなさい。〔5点〕
問4
下線部⑦に関連して,明時代の中国に来航したイエズス会キリスト教宣教師によって作製された漢訳版世界地図で,同時代の日本にも輸入され,当時の日本人の世界観にも影響を与えた地図の名を答えなさい。〔5点〕
問5
下線部⑧について,ヴェトナムは伝統的に中国に朝貢をおこない,中国の封体制に組み込まれてきたが,清仏戦争によりヴェトナムと中国の朝貢・冊封関係は終わりをつげた。この清仏戦争を終結させた講和条約の名を答えなさい。〔5点〕
問6
下線部⑨にある「アメリカにたたきつぶされた」とは,アメリカによるフィリピンの植民地化を意味している。このような状況をもたらした1898年の戦争は,もともとカリブ海のある島のスペインからの独立運動を支掩するという目的を掲げてアメリカが戦争に介入したものだった。このカリブ海に浮かぶ旧スペイン髄の島の名を答えなさい。〔5点〕
問7
下線部⑩に関連して,第二次世界大戦後,新しい世界秩序の中で東西対立による冷戦が始まり,ついには両陣営が戦火を交える事態にまで至った。「アジアでの冷戦の幕開け」の出来事の一つとして,1950年に勃発した戦争の名を答えなさい。〔5点〕