一橋大学1985年度-1
マホメット(570ごろ-632)のもとでイスラム教徒として統一されたアラビア人は、かれの死後、カリフの指導下に、アラビア半島から各方面にむかって「聖戦」をくりひろげ、アラブ国家を大規模に拡張した。この征服の経過を、西南アジア世界への方向と、地中海世界への方向の二つに分けて、前者については7世紀中葉にいたるまで、後者については8世紀前半にいたるまで記述せよ。その際、それぞれの地域がアラビア人の支配下に入る以前は、どのような政治的、宗教的状態にあったのかが分るような形で記すこと(400字以内)。
解説
問題文をきちんと読むことが、良い解答への最短ルートだということを何度強調しておきます。直接問うている部分以外も、ほとんどの場合は解答のヒントになっています。決して読み飛ばすことのないようにしましょう。
問題文を確認すると、「西南アジア世界への方向」と「地中海世界への方向」の二つに分けて説明しなければいけません。
そして時代は「西南アジア世界への方向」は「マホメットの死後」~「7世紀中葉」の期間、「地中海世界への方向」は「マホメットの死後」~「8世紀前半」の期間となります。
ここでマホメットの死が指定された期間のスタートになっていますが、この問題では632年と明記されています。これは問題の配慮かと思いますが、明記されていなくても覚えておかないといけない年号になります。イスラーム関係は頻出ですので、区切りとなる年号を覚えておいたほうが良いでしょう。
では問題で指定された地域・時代をもう一度整理すると、
「632年~7世紀中葉の西南アジア世界」と「632年~8世紀前半の地中海世界」へのイスラーム勢力の進出の「経過」ですね。
「経過」は第1回「変遷」と同じように時系列に沿って書けばいいでしょう。時系列が怪しい場合は、地域別に各方法もあります。
また問題文の最後に、「それぞれの地域~は、どのような政治的、宗教的状態」かを問うています。分かるようにとあるので、無理に過程の説明に組み込まなくても、別の文として書けば良いでしょう。
こういう問題の場合、世界のあちこちに目線が移りますから、頭に地図を思い浮かべながら考えていきましょう。まだパッと浮かばない人は資料集や教科書を見つつでも構いませんので、しっかり場所を覚えていきましょう。
論述ポイント1
前振りはこのくらいにして、内容を整理していきます。
まず前者の「西南アジア」からみていきますが、この西南アジアという表現は少しだけ注意が必要です。「西南」という言葉はアジア全体を見た上での「西南」ですから、場所はアラビア半島からイラン高原にかけての地域を指します。
一方、当時のイスラーム勢力はメッカやメディナを中心とするヒジャーズ地方に居ます。この地はアラビア半島の西岸です。なので、彼らの進行方向は東北向きになります。進出する方向に注意しましょう。
では、アラビア半島からイラン高原に向けての進出を見ていきましょう。
マホメットの死後、アラビア半島全域に支配地を広げていきます。当時アラビア半島に住む非ムスリムのアラブ人は諸部族に分かれ、多神教を信仰していました。
多神教であることはマホメット一行のメッカ占領の中で出てきます。
カーバ神殿に向かった彼らは神殿内の神像を徹底的に破壊します。この辺りにイスラームの厳格な偶像崇拝禁止が現れていますね。
アラビア半島を支配したのちもイスラーム勢力は進行を続け、イラン勢力とぶつかります。これが642年のニハーヴァンドの戦いです。これも是非とも覚えておいてほしい年号ですね。
ここでぶつかったイラン勢力とは何でしょうか。ササン朝ペルシアですね。
山川の詳説世界史では、ペルシア文明の記述とイスラームの記述は章が分かれていますが、ここでつながりますので、結びつけて覚えておきましょう。ササン朝勢力を破ったわけですから、彼らの政治体制は古代オリエントと同じく専制君主政ですね。
また宗教はゾロアスター教というのは基本事項でしょう。ササン朝の滅亡が651年ですから、この辺りまでの内容で「西南アジア世界」については満たせているでしょう。
「二つに分けて」と問題文にありますが、対象とする期間が大きく異なるので、文量は全体の1/4程度とするのが妥当でしょう。
論述ポイント2
次に「地中海世界」についてですね。
地中海世界といってもオスマンのようにバルカン半島へ進出したわけではないのはご承知の通りでしょう。アラビア半島からシナイ半島を通ってエジプトへ、さらに北アフリカを進みジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へと進みます。
結論から言ってしまうと、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまでイスラーム軍は地中海を時計回りで侵略を進めます。
時代を見てもらえれば、732年で8世紀前半です。ここがおおよその指定範囲の最後ということになります。
では改めて内容を整理しましょう。
北アフリカ方面は当時ビザンツ領でした。皇帝教皇主義に基づく、皇帝支配が行われ、当然宗教はギリシア正教です。
また、エジプトの一部にはコプト派のキリスト教徒たちも居ました。彼らに言及する必要はないかと思いますが、字数に余裕があれば入れると良いでしょう。
そこからイベリア半島へと軍は進みます。当時のイベリア半島は西ゴート王国の時代、王政で「カトリック」です。
非常に細かい知識ですが、西ゴート王国は当初アリウス派でしたが、後にカトリックを国教とします。ややこしければキリスト教とだけ書いても間違いではないでしょう。
そして、イベリア半島を制圧したイスラーム軍はピレネー山脈を越えてフランク王国へと入ります。この衝突が先述した732年のトゥール・ポワティエ間の戦いです。
フランク王国のカール=マルテルによって軍は防がれましたが、現フランス南部はイスラーム軍の支配下に置かれました。
フランク王国ですから、政治体制は王政かつ宗教はカトリック(アタナシウス派)になります。
まとめ
以上のことを400字にまとめていきます。簡潔にかつ不足なく文章をまとめていきますので、なかなかの文章力が必要です。何度も書き直しながらがんばりましょう。
さて、この問題は第1回と少し似ています。
第1回では「ローマ帝国の変遷」を見ることで現在のヨーロッパ世界の始まりを考えました。
今回はイスラームからヨーロッパ世界の形成を見ていることになります。
また、解説ではあえて触れませんでしたが、この問題の指定する時代は正統カリフ時代とウマイヤ朝時代を指しています。
イスラームの学習では、アッバース朝が大きな印象を与えていますが、数あるイスラーム王朝の中で最大版図を実現したのはウマイヤ朝なのです。
これは是非資料集でも確認してほしい点です。
イスラーム文化は現在もっと広範囲に広がっていますが、一つの政治・軍事権力が轟いたのはこの時代なわけです。アラブ帝国としか扱われないウマイヤ朝ですが、改めてこの王朝を考えてみてください。
第4回に続きます。



