東京外国語大学 2011年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 次の史料は,7年戦争の講和条約として締結されたパリ条約の一部である。史料を読んで,以下の問に答えなさい。

第2条 ①1648年の条約,1661年・1670年のイギリス・スペイン両国王間のマドリード条約,1678年・1679年のナイメーへンの和約,1697年のライスワイクの和約,②1713年の条約,1714年のバーデンの和約,1717年のハーグ三国同盟条約,1718年のロンドン四国同盟条約,1738年のウィーンの和約,1748年のエクス・ラ・シャベル(アーへン)の和約,1750年のイギリス・スペイン両国王間のマドリード条約,1668年2月13日,1715年2月6日および1761年2月12日のスペイン・ポルトガル両国王間の条約,1713年4月11日のイギリスの保証の下で締結されたフランス・ポルトガル間の条約は,平和および本条約の基礎である。そして,その目的のために,上記の諸条約は最良にして包括的な形ですべて有効であることが再確認される。(後略)

第4条 フランス国王は,これまで主張してきたノヴァスコシアないしアカディアについてのすべての権利を放棄し,そのすべてとそれに付属するものがイギリス国王に帰属することを保証する。さらに,フランス国王はイギリス国王に対して,カナダおよびそれに付属するもの,ケープブレトン島,セントローレンス湾およびセントローレンス川の他のすべての島々(中略)を,イギリス国王とその政府に譲渡し,それを保証する。(後略)

第5条 フランス臣民は,(中略)③[ a ]島沿岸の一部において漁業を行い,魚を干す自由を今後も享受する。(後略)

第7条 堅固にして永続的な平和を再建し,アメリカ大陸におけるイギリスとフランスの領土の境界に関するあらゆる紛争を永久に取り除くために,今後,この地におけるイギリス国王の飯土とフランス国王の額土は,ミシシッピ川に沿って,その源からアイバーヴィル川まではミシシッピ川の中央線によって,その先から海まではアイヴァーヴィル川とモールパ湖とボンチャートレーン湖との中間に引かれた線によって確定され,改変できないものとすることが合意される。(中略)このために,フランス国王は,引き続きフランスに属するニューオーリンズの町およびその所在する島を除き,モービル川およびモービル港,ならびに彼がミシシッピ川の左岸地域において所有しているすべてについて,その全権利をイギリス国王に譲渡し,それを保証する。(後略)

第8条 イギリス国王は,フランスにグァドループ島,マリギャラント島,デジラード島,マルティニーク島,ベルイル島を返還する。また,これらの島々の砦は,イギリス軍によって占拠される以前の状態で返還される。(後略)

第11条 ④東インドにおいては,イギリスはフランスに対し,1749年初めの時点でコロマンデルおよびオリッサの沿岸,マラバールの沿岸,またベンガルにおいてフランス国王が所有していた各地の商館を,現状のままで返還する。そして,フランス国王は,前述の1749年初め以降にコロマンデルおよびオリッサの沿岸において獲得したものに対するあらゆる請求権を放棄する。一方,フランス国王は,今般の戦争の間に東インドにおいてイギリスから獲得しようとしたものすべてを元に戻すこととし,特に,スマトラ島のナッタルおよびタパヌリを返還する。さらに,フランス国王は,ベンガルの太守の支配地のいかなる場所においても砦を築いたり,部隊を駐屯させたりしないことを約束する。そして,コロマンデルおよびオリッサの沿岸における将来の平和を維持するため,イギリス・フランス両国は,マホメット・アリ・ハーンをカーナティツクの正統な太守として,サラバト・ジヤングをデカンの正統な総督として承認する。また,両国は,戦争の間に一方もしくは他方に加えられた破壊もしくは略奪をめぐって,相互もしくはそれぞれのインドの同盟者に対して行う余地のあるすべての要求および請求権を放棄する。

第15条 クレーフェ,ヴェーゼル,ヘルダーラントおよびプロイセン国王に帰属するすべての領土における要塞からのフランス軍の撤退に関して,また同様に,(中略)神聖ローマ帝国全域において獲得した占領地からのイギリス軍およびフランス軍の撤退とそれぞれの領土への帰還に関して,予備条約第13条の諸規定が本条約調印時に実行されていない場合,イギリス国王とフランス国王は,誠意をもって,可能なかぎり速やかに前述の撤退を完遂することを約束する。その期限は両国王が設定した,来る3月15日,もしくは可能ならばそれ以前とする。(後略)

第19条 イギリス国王は,⑤キューバ島において彼が占領した土地のすべて,およびハバナ砦をスペインに返還する。そして,この砦は,同島の他のすべての砦と同様,本条約によってスペインに返還される同島に定住していたイギリス国王の臣民,もしくは⑥同島において処理すべき商取引のあるイギリス国王の臣民が,その所有する土地や財産を売却したり,その商取引を清算したり,債権を回収したり,家財や家族を帰国専用の船舶にのせて送り返したりする自由が,宗教上の理由,もしくは債務と犯罪以外の他のいかなる理由によっても制限を受けずに認められるかぎりにおいて,イギリス国王の軍隊によって征服された時点と同じ状態で返還される。(後略)

第20条 前条に規定された返還の結果,スペイン国王は,セントアウグスティンおよびペンサコーラ湾を含むフロリダ,ならびにミシシッピ川の東ないし南東までの北アメリカ大陸においてスペインが所有しているすべてについて,その全権利をイギリス国王に譲渡し,それを保証する。(後略)

パリにおいて調印された。1763年2月10日。
(歴史学研究会編『世界史史料』第6巻,岩波書店,2007年。ただし,一部の条文を削除し,表現の一部を改めた。)

問1
 18世紀半ば,ヨーロッパの国際関係には「外交革命」とも呼ばれる大きな転換が生じた。本条約に登場するイギリス,オーストリア,スペイン,プロイセンの中で,7年戦争におけるフランスの交戦国をすべて挙げなさい。〔5点〕

問2
 下線部①の条約によって,ヨーロッパにおいて主権国家体制が確立した。この条約の名を答えなさい(ハ)。また,この条約によって終結した戦争の名を答えなさい(ロ)。〔5点〕

問3
 下線部②の条約は,スペイン継承戦争の結果,締結されたものである。この条約の名を答えなさいの。また,この条約によってスペインの王位継承が認められた王家の名を答えなさい(ニ)。〔5点〕

問4
 下線部③の空欄に[ a ]の島近海は,当時から世界有数のタラの漁場として知られていた。この島の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部④に関連して,18世紀のインドの最も重要な輸出品を答えなさい(ホ)。また,インド東海岸の南部におけるフランスの根拠地の名を答えなさい(ヘ)。〔各5点〕

問6
 下線部⑤に関連して,後にキューバの独立をめぐって起こされた戦争の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑥に関連して,17世紀半ばから18世紀にかけて,従来のスペインやポルトガルに加え,イギリスやフランスなどのヨーロッパ主要国が大西洋貿易に本格的に進出した。下図は,18世紀の大西洋貿易の流れを図式的に表わしたものである。空欄トとチに入るもっとも適当な語句を答えなさい。〔5点〕

問8
 7年戦争の背景と,この戦争が非ヨーロッパ世界にもたらした影響について,400字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。〔20点〕

重商主義政策   「代表なくして課税なし」   プラッシーの戦い
フレンチ・インディアン戦争    マイソール王国

〔2〕

 次の史料は,中国での王朝交代に関して,当時,日本が得た情報を書き留めたものである。〔A〕〔B〕〔C〕は,江戸時代に幕府の儒官を勤めた林鵞峰(がほう)・鳳岡(ほうこう)父子が編纂した『華夷変態』の一部であり,〔D〕は1661年のオランダ風説書である。これらを読んで,以下の問に答えなさい。なお,史料は現代語に訳し,表現の一部は改め,年号は陽暦・西暦で表した。(40点)

〔A〕
 1642年,李日成が反乱を起こし,1644年に北京に攻め入った。同年崇禎帝は自殺し,李自成は大順国と唱えた。南京では福王が即位し,弘光と改元した。福王は,崇禎帝の従弟である。翌1645年春,呉三桂は①韃靼の兵を頼って李自成を討伐し,北京を奪還した。呉三桂が,李自成を追って陳西へ行ったあと,鞋鞄はすぐに北京を奪い取り,順治と改元し,大靖国と唱えた。韃靼は南京も攻めとって,弘光帝を殺害した。そこで,鄭芝龍は福州で明の太祖の後裔である唐王をたてて,隆武と改元した。
 鄭芝龍は,若い頃,日本に渡って肥前国平戸ではきものを売りながら数年滞在していた。平戸一宮と称していた。妻を要って子をもうけたが,その後,妻子を平戸に留めおき,自身は本国に帰った。崇禎帝在位のはじめ頃のことである。この時,南海の福州辺に海賊が発生し,芝龍も海賊の一味として活動した。その後,崇禎帝に謝罪し,官軍となって海賊を平定し,福建道の大将に任命された。
 鄭芝龍は,凡夫から大将に取り立ててくれた明朝の厚恩に報いたいと思い,福州に都を立て,韃靼を平定し,明朝を再興しようとしたのである。ところが,兵が不足しているため,日本の加勢を受けたいと考え,まず芝龍の部将である雀芝から書簡を長崎に送った。(後略)
(榎木一雄編『華夷変態』上巻,東方書店)

〔B〕
 長崎からの書状によると,1646年に韃靼人が福建に攻め入った。大明人は戦うこともできずに降参し,唐王は江西に逃げ,皇后は自殺したとも,韃靼人に捕らえられたともいわれている。鄭芝龍は福州を脱出し,船で福州から南の海上に出た。芝龍の妻子らや武官もみな船で泉州に逃げた。陸路は一揆が起きていて危険なため,福州からはみな船で逃げ去った。官人はいうまでもなく,富民もみな福州を逃げ出し,福州には貧民ばかり残っている。鞋担人はまだ福州に入っておらず,使いを芝龍に送り,②髪を剃って降参するならば福建・広東・江西3省を芝龍に与え,その王とするといったという。芝龍は,髪は剃らずに3省を領有することを許すならば,降参して貢ぎ物を納めよう,といったという。使いはそのように伝えるといって延平に帰った,とのことである。
(中略)
 その後の風聞によると,鄭芝龍は韃靼人に欺かれて降伏した。日本から送られた芝龍の妻は自害した。芝龍は約束の領地も与えられず,北京に送られて禁獄された。唐王も生け捕りとなった。芝龍の子は残った兵を集めて福州を取り返し明帝の一族の魯王を迎えて,(中略)朱姓を賜わり,朱成功と称した。(後略)
(『華夷変態』上巻)

〔C〕
 1650年 明の魯王を奉ずる建国公鄭彩が琉球の太子に送った書状
 (前略)韃靼人の罪を広く知らせ,天誅を加えようと思う。そもそも天は諸々の民のために一人の君を立てる。その君たる人は天を補佐して,すべての民の上に居て,諸人を自分の子のように恵み育てるべきものである。大明の太祖皇帝は,生まれつき寛裕,温柔,聡明で,叡知にすぐれていた。③太祖の徳は天下に広まり,四海の果てまでも従わない者はなかった。その後,代々の帝王は聡明で,近いものをてなずけ,遠いものを安んじ,300年間恩沢を広めた。琉球からも使者が往来し,安堵の思いを久しくしてきた。ところが,虎や狼のような心をもつ韃靼が,琉球を生でまる呑みにしようとしている。大明から加勢を派遣して守らせるつもりである。琉球も大明の恩を少なからず被ってきたからである。(中略)
 大明の天下は,近いうちに再興しようとしている。私も各地の味方と申し合わせて,日限を定めて軍をおこそうとしている。しかし,長槍・大剣・鎧・煙硝などは高価である。④琉球は日本の隣国で,深く好誼を通じていると聞いている。どうか,何らかの手段をつかって,日本に連絡し,こうした品々を調達し,我が軍にもたらしてほしい。到着ししだい,銀子や財宝でその代価を支払うつもりである。
 そのように間を取り持ってくれれば,私から日本国を頼み,その力を借りて韃靼の罪を糾弾し討伐するつもりである。軍功が成就し本望を遂げたならば,琉球国の忠節は甚大なものであるから,大明から特別にその礼に報いることになるであろう。(後略)
(『華夷変態』上巻)

〔D〕
 (前略)⑤国姓爺(鄭成功)は,すでに9年前から,フォルモサ人やタイオワン(現在の台南安平地方)の中国人と気脈を通じて,[ a ]城を奪取し,自身がその地の王となろうと企てていた。(中略)
 1661年,国姓爺は4万余りの兵と約300膿のジャンク船からなる大艦隊を率いてタイオワンに現れ,夜のうちに城に接近し,朝になっていきなり鹿耳門(ろくじもん)の水道を通過して兵を上陸させた。そのため,湾内の船の通行は封鎖され,本島から遮断されてしまった。そこで,200人の兵を率いた一隊が派遣されたが,全員中国人によって殺害された。
 国姓爺はさらに進み,赤嵌(せきがん)にあるプロビンシャ城と,本島を手中に収めた。その後,城の周囲の市街を焼き払い,1100人余り立て籠もっていた[ a ]城に向けて,24門の大砲を猛射した。オランダ側に残されていたわずか4腔の船も戦火を交えたが,その内100人以上の乗組員のいた船は火災を起こして爆沈し,1膿はおそらく⑥バタビアに向け,他の2艇は基隆に向けて,戦況を知らせるために出航した。基隆に向かった船は再び引き返して戦ったが,再び基隆に向かい,その地のオランダ人を乗せて日本に到着した。(後略)
(日蘭学会・法政蘭学研究会編『和蘭風説書集成』上巻,吉川弘文館)

問1
 下線部①「韃靼」とは,江戸幕府が当時の中国東北部を本拠とする人々を指して呼んだ呼称である。ここでいう「韃靼」が1616年に建国した国の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②のように,恭順の証として漢人男子が強制された風習の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③のような東アジアの秩序を,100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔10点〕

  中国    冊封体制    朝貢

問4
 下線部④のように認識されているものの,琉球王国は1609年,日本の大名家に服属することとなっていた。その大名家の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤「国姓爺(鄭成功)」をモデルとした江戸時代の浄瑠璃の作者名を答えなさい。〔5点

問6
 下線部⑥「バタビア」に米を供給し,琉球や中国ともさかんに交易していた東南アジア地域の王朝の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 空欄[ a ]には,オランダが拠点とした城の名が入る。その城の名を答えなさい。〔5点〕

 

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