東京大学 2006年度 世界史過去問

世界史

第1問

 近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し,民主主義が成長した反面,各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方,国際法を制定したり,国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。

 このように戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて,解答欄(イ)に17行(510字)以内で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。 

 ウェストファリア条約 『戦争と平和の法』 ナショナリズム
 国際連盟       総力戦       平和に関する布告
 十四ヵ条       徴兵制

第2問

 インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は,古来,地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし,また,中央ユーラシアとも,南北にのぴる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて,次の3つの設問に答えなさい。解答にあたっては,解答欄(ロ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1)インド亜大陸へのイスラームの定着は海陸両方の経路から進行した。そのうち,カイバル峠を通るルートによる定着過程の,10世紀末から16世紀前半にかけての展開を,政治的側面と文化的側面の双方にふれながら4行以内で説明しなさい。

(2)インド洋地域で,イギリスやフランスの東インド会社は,インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

(3)ヨーロッパ列強にとって,インドにつらなるルートの重要性が増していくなかで,ヨーロッパとインド洋を結ぶ要衝であるエジプトは,次第に国際政治の焦点となっていった。18世紀末から20世紀中葉にいたるエジプトをめぐる国際関係について,以下の語句のすべてを少なくとも1回用いて,4行以内で説明しなさい。

 ナポレオン スエズ運河 ナセル

第3問

 世界史上,政治的な統合のあり方は多様であった。帝国や同盟的連合など,その形態には,近代の国民国家とは異なるさまざまな特徴がみられた。こうした政治的な統合の諸形態に関連する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は,解答欄(ハ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 鉄製の武器や戦車の使用で強大化したアッシリアは,前7世紀にオリエント全土を支配する大帝国を築いた。その首都の名(a)を,(a)の記号を付して記しなさい。また,その位置として正しいもの(b)を地図上の(ア)~(オ)の中から選び,(b)の記号を付して記しなさい。

(2) 地中海と黒海を結ぶ要衝の地にあるイスタンブールは,起源をたどれば前7世紀に[ (a) ]人によって建設された都市であった。文中の[ (a) ]に入る語と,この都市の建設当初の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(3) 中国の春秋時代には,覇者と呼ばれる有力者が「尊王攘夷」を唱えて盟約の儀式を主宰したといわれる。「尊王攘夷」とは何のことか。ここでいう「王」とは何かを含めて,1行以内で説明しなさい。

(4) ローマ帝国の首都ローマには各地の属州からさまざまな物資がもたらされ,その繁栄を支えた。なかでもエジプトはローマの穀倉として重要であった。このエジプトを属州とする際にローマが倒した王朝の名を記しなさい。

(5) イスラーム教徒は,ムハンマドの布教開始から1世紀もたたないうちに,広大なイスラーム帝国を樹立した。しかしその後,しだいに地域的な王朝が分立していった。イベリア半島では,8世紀後半に,[ (a) ]を王都とする王朝が出現し,独自のイスラーム文化を開花させた。文中の[ (a) ]に入る都市の名と,この王朝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(6) 遊牧民族の国家は,諸軍事集団の連合体という性格が強く,君主(ハン)の選定や遠征の決定など重要な事項が有力者の合議によって定められた。チンギス=ハンの即位の際にも開かれたこのような会議をモンゴル語で何と呼ぶか,記しなさい。

(7) 帝政時代の中国の政治体制は中央集権的な官僚統治体制と言われるが,皇帝の一族や勲功のあった者に「王」の称号を与えて領地を世襲的に統治させることもしぱしぱ見られた。明代初期に燕王として北平に封ぜられ,のち反乱を起こして皇帝の位を奪った人物は誰か。皇帝としての通称でその名を記しなさい。

(8) 13世紀後半に,ドイツは皇帝のいない「大空位時代」を迎えた。その後,有力諸侯を選帝侯とし,彼らの選挙によって皇帝を選ぶ原則が定められた。その原則を定めた文書の名(a)と,それを定めた皇帝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(9) 中世ヨーロッパでは,ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が,宗教的な普遍権威として存在していた。だが中世後期になると,各国の地域的な独立性が増して教皇の権威は弱まり,3人の教皇が並立する「教会大分裂」が生じた。

 この「教会大分裂」を克服して,新たな教皇を選んだ会議の名称(a)と,このときに異端として火刑に処せられた人物の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(10) プロテスタント系佳民が多かったネーデルラント北部では,16世紀後半に入ると,支配者のスペイン王フェリペ2世が大規模な宗教迫害を行なった。それに対して北部7州は,同盟を結んで反乱を起こし,最終的には連邦制の国家を形成するにいたった。このときに,北部7州が結んだ同盟の名称を記しなさい。

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