東京外国語大学 2008年度 世界史過去問

世界史

〔1〕

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,オスマン帝国(オスマン・トルコ)もドイツ側にたって参戦した。それにともない,連合国(協商国),とくにイギリスはオスマン領の取り扱いをめぐってさまざまな交渉を行なった。まず1915年7月から翌年3月にかけ,メッカの支配者(シャリーフ)フサイン(フセイン)と,カイロに駐在する高等弁務官マクマホンとの間でいくども書簡が取り交わされた。史料1は,のちに「フサイン=マクマホン協定」と呼ばれることになる協定の原型となった書簡である。
 一方でイギリスはフランスと交渉を行ない,オスマン領の分割をめぐる協定を結んでいた。史料2は,「サイクス=ピコ密約」とも呼ばれるこの協定の原型となった,イギリス外相グレイの書簡である。以上二つの協定に,バルフォア宣言(1917年11月2日)も加えた相矛盾する方針の中で,連合国(協商国)は結局「サイクス=ピコ密約」に沿うかたちでオスマン領の分割を図り,戦後の1920年8月にセーヴル条約を締結することになる。
 だがオスマン側にも,そうした動きを察知して領土分割に抵抗する運動をはじめたグループが存在した。彼らは1920年1月にオスマン帝国議会において,自国領土の保全・不可分をうたった「国民誓約」を採択して抵抗運動の指針としていた。このグループがのちにセーヴル条約を破棄させ,「トルコ革命」を成功へ導くことになる。史料3として掲げたのが「国民誓約」の抄訳である。

 これら3つの史料を読んで問に答えなさい。

【史料1 ヘンリー・マクマホンの1915年10月24日付書簡】
 1915年9月9日付けの書簡を大きな喜びとともに受け取りました。あなたの友情と誠実さの表明は,わたしにこの上ない喜びを与えました。
(中略)
 メルシン,アレクサンドレッタの両地域,そしてダマスクス,ホムス,ハマ,およびアレッポの西側に位置するシリアの地域は,純粋にアラブとは言いがたいため,要求されている範囲からは除外されます。
(中略)
 ①イギリスが同盟国フランスの利益を損なわずに自由に行動できる境界線内に位置する地域に関して,わたしはイギリス政府の名において,以下のような保証,および書簡に対する以下のような返答を与える権限を有しています。
 1.イギリスは,上記の修正を条件として,メッカの支配者によって要求されている範囲内のすべての地域におけるアラブの独立を認め,支持する用意がある。
 2.イギリスは,②聖地を外国のあらゆる侵略に対して保全し,またその不可侵性を認める。
 3.状況が許せば,イギリスはアラブに対して助言を与え,またこれらのさまざまな領域でもっともふさわしいと思われる統治形態を彼らが作り上げるのを援助する。
 4.他方,以下のことが了解される。すなわち,アラブ人はイギリスからのみ助言と指導とをあおぐことを決定した。また,統治の健全な形態を作り上げるために必要となるヨーロッパ人の顧問,官吏はイギリス人とする。
 5.バグダード,バスラ両州について,当地におけるイギリスの既存の地位と利益が,これらの領域を外国の攻撃から守り,現地住民の福利の促進とわれわれ相互の経済的利益を保全するために,特別な行政措置を必要としていることを,アラブは認める。
 わたしはこの宣言が,あなたにアラブの友人たちの熱望に対するイギリスの共感を疑問の余地なく確信させ,また堅く永続する同盟をもたらすものと信じています。その同盟は,ただちに③アラブの土地からトルコ人を排除し,アラブの人々を長期にわたって圧迫してきたトルコ人のくびきから解き放つでしょう
(後略)
(Zeine N. Zeine, The Struggle for Arab Independence, 1960より)

【史料2 エドワード・グレイの1916年5月16日付書簡】
(前略)
1.フランスとイギリスは,アラブ首長の宗主権下に,添付地図に示されたAおよびBの独立アラブ国家,あるいはアラブ国家連合を承認し,また保護する用意がある。A地域ではフランスが,B地域ではイギリスが,事業ならびに地域融資の優先権を持つ。A地域ではフランスのみが,B地域ではイギリスのみが,アラブ国家またはアラブ国家連合の要請に応じて顧問または職員を派遣する。
2.添付地図に示されたC地域ではフランスが,D地域ではイギリスが,それぞれが望むような,またアラブ国家あるいはアラブ国家連合と取り決めるのがふさわしいと考えるような直接的統治,間接的統治,あるいは管理を確立することが認められる。
3.添付地図に示されたE地域では国際的共同統治が行なわれる。その形態は,④ロシア,さらに後に他の同盟諸国,およびメッカの支配者の代理人と協議の上で定められる。
(中略)
6.イギリス,フランス両政府の合意のもとで,ユーフラテスの河谷を通ってバグダードとアレッポを結ぶ新たな鉄道が完成するまで,⑤バグダード鉄道は,A地域においてはモースル以南には延伸されず,B地域ではサーマッラー以北に延伸されない。
(中略)
9.以下のことに合意する。フランス政府はC地域における自らの諸権利を委譲する交渉や,そうした諸権利の譲渡を,イギリス政府の事前の了承なしに,アラブ国家あるいはアラブ国家連合以外のいかなる第三国に対しても決して行なわない。イギリス政府もまた,D地域に関して,フランス政府に同様の約束をする。
10.イギリスおよびフランス政府は,アラブ国家の保護者として,アラビア半島に領土を獲得せず,また第三国による領土の獲得にも,さらに第三国が紅海の東岸あるいは島峡部に海軍基地を設置することにも同意しない。ただしこれは,トルコによる新たな攻撃の結果必要となりうるアデン戦線の調整を阻害するものではない。
(後略)
(E. L. Woodward & R. Butler, eds. , Documents on British Foreign Policy 1919-1939, London, 1952より。ただし文章表現および地図を一部改めた。)

【史料3 国民誓約(1920年1月28日採択)】
1.アラブが多数を占め,1918年10月30日の休戦協定締結時に敵軍の占領下にあったオスマン領のみ,その将来は住民の自由投票によって決せられるべきである。(それ以外の)休戦協定で定められた境界内に住む,宗教的・民族的・血統的な一体性と,相互の敬意・情愛の感覚によって周囲の社会環境と分かちがたく結びついているイスラム教徒オスマン人の居住地域のすべては,現実的にも法的にも,いかなる理由によっても分割されえない一体的な存在である。
(中略)
4.⑥イスラム・カリフ位とオスマン・スルタン位の玉座のあるイスタンブルとマルマラ海の安全は,あらゆる脅威から守られるべきである。この条件が保証される限りにおいて,ボスフォラス,ダーダネルス両海峡が全世界の商船に開放される方向で,諸外国と協議がなされる。
5.戦勝国とその敵国との間で結ばれるべき諸条約の原則に則って,われわれは少数民族の権利を,近隣諸国のイスラム教徒民衆も同じ権利を享受しうるという条件下で保障する。
6.⑦われわれの国民的・経済的発展と,より近代的・効率的な統治を可能にするために,われわれにも他の諸国同様の自由と独立が必要である。したがって,われわれは,われわれの政治上・司法上・財政上の発展を阻害するいかなる制限にも反対である。外債の支払い方法も,この原則に反することはできない。
(Ismet Görgülü, Ana Hatlariyla Türk Istiklal Harbi, Istanbul, 1985より)

問1
 下線部①に関連して,19世紀末においてイギリスはアフリカ分割をめぐってフランスと対立していた。(イ)横断政策,縦断政策をとる両国間の対立が戦争の危機にまで高まった,1898年の衝突事件の名を答えなさい。また,(ロ)同じ時期に南アフリカにおいてイギリスの帝国主義政策を推進し,ダイヤや金の採掘権を独占するとともにケープ植民地の首相ともなった人物の名を答えなさい。(10点)

問2
 下線部②に関連して,その管理権をフランスとロシアがそれぞれオスマン帝国に要求したことを契機として,19世紀中頃に起こった戦争の名を答えなさい。(5点)

問3
 下線部③に関連して,エジプトでは19世紀前半にムハンマド・アリーがオスマン帝国からの自立を徐々に実現していたが,ムハンマド・アリーの勢力伸長は,18世紀末にヨーロッパのある国がエジプトを占領したことを契機にしていた。このエジプト占領軍を率いた司令官の名を答えなさい。(5点)

問4
 下線部④に関連して,ロシアはのちに「サイクス=ピコ密約」に加わるが,革命によって戦争そのものから離脱することになる。1918年3月にロシアが単独で結んだ講和条約の名を答えなさい。(5点)

問5
 下線部⑤に関連して,バグダード鉄道はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「世界政策」の一環として位置づけられる。皇帝は,前宰相ビスマルクの作り上げた複雑な同盟網を解体・再編しようとしたが,ビスマルク時代に同盟関係にありながら,ヴィルヘルム2世が再保障(二重保障)条約の更新を拒否したために対立する関係へ移行した国の名を答えなさい。(5点)

問6
 下線部⑥に関連して,トルコではのちに革命が起こってスルタン制,カリフ制,いずれも廃止されることになる。トルコ革命を指導し,共和国の初代大統領となった人物の名を答えなさい。(5点)

問7
 下線部⑦に関連して,この時期に唱えられた「民族自決」の原則は,アジア・アフリカには適用されずに終わった。中国においても,第一次世界大戦中に日本が獲得した利権の返還・取り消しが求められたが,パリ講和会議でこれは認められなかった。このことに抗議して,中国国内で起こった運動の名を答えなさい。(5点)

問8
 史料2の地図でE地域として示された地域をめぐる,第一次世界大戦終結から1960年代までの政治情勢について,中東戦争にも触れながら,400字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(20点)

 委任統治 1948年 スエズ運河国有化  PLO  第三次中東戦争

〔2〕

 次の文章は,海軍提督ペリーが外交交渉を委託された日本遠征出発を前にして,国務長官代理コンラッドが海軍長官ケネディー宛に送った書簡の抜粋である。この書簡には,当時の日本がおかれた国際情勢についてのアメリカ合衆国政府の認識と今回の遠征の目的が示されている。この文章を読んで問に答えなさい。(「・・・」は史料の省略部分を示す。)

 日本の外国排除の制度は実施が厳格なため,外国船は海難事故にあっても日本の港に入ることが許されず,また日本の被災民に親切の手を差しのべることさえ許されない。1831年,一隻の日本船が難破し,漂流数ヶ月の後オレゴンのコロンビア河口付近に打ち上げられた。アメリカ船モリソン号は生存していた乗組員を故国に送り届けようとしたが,江戸湾に入ると付近の海岸から砲撃を受けた。・・・
 ①むろん、すべての国家は外国との交際をどの程度にするかを自ら決定する権利を有している。しかしながら,一国にこの権利行使を保障している諸国民の法は,その国に義務も課しているのであり,不当にそれを無視することはできないのである
 このような義務の中で,自国の海岸に海難によって漂着した人々を救済すること以上に求められる義務はない。・・・海洋を航行する合衆国市民を保護する義務はもはや猶予を許されない。・・・
 ②合衆国政府の求める目的は次のごとくである。
  1. 日本で座礁し,または悪天候のために日本の港に避難するアメリカ船員ならびにその財産を保護するために何らかの恒久的取り決めをなすこと。
  2.食料,水,燃料の補給を受けるために,または損傷を受けた後,航海続行を可能とするよう修繕を加えるために,アメリカの船舶が日本の一港またはいくつかの港に入港することの許可。・・・
  3.アメリカ船が,売買あるいは物々交換によってその積み荷を売りさばくために,日本の一港またはいくつかの港に入港することの許可。
 合衆国政府は他国のために条約を結んでその不平を解決する権利を持っていない以上,前述のいずれかの点でいかなる譲歩を得たとしても,それは他国の住民または船舶に当然適用される必要はない。
 しかしながら,合衆国政府はこの遠征によって何か排他的商業特権を独占しようとするものではない。むしろ反対に,何らかの利便が得られるのであれば,結局において文明諸国によってともに享受できることを希望しかつ期待するものである。
 ③一国の諸港が一度一つの国に開かれるならば,それらはやがてすべての国に開かれてゆくことは疑いないところである。・・・
 次いで問題となるのは,上記の目的をいかにして達成するかにある。・・・
 日本国民に深く根ざしているキリスト教国民との交際に対する嫌悪の情は,主として初期の,とりわけポルトガルの宣教師たちが自らの信仰を広めようと思慮を欠くほど熱狂的に努力したことに起因するものといわれている。それゆえに,今回の使節を務める提督は,合衆国政府が自国国民の宗教に対して干渉せず,まして他国民の宗教について全く干渉しないことを伝えなければならない。また,日本人は④イギリス人が東洋において征服を遂げ最近中国を侵略したと聞き及んでいると思われる。それゆえ,彼らはイギリス人に対して恐怖あるいは偏見を大いにかき立てられていることであろう。アメリカ人はイギリス人と同じ言葉を話すことから日本人が合衆国の市民と英国国民とを混同することも無理はない。事実,上述した船舶乗組員に対する野蛮な取り扱いは,彼らが本当はイギリス人ではないかとの嫌疑によることが一因であったのである。
 それゆえペリー提督は日本人に説明して,以下のことを告げるべきである。すなわち,・・・⑤合衆国と世界各地との通商は急速に増大しつつあり太平洋のこの方面はやがて合衆国の船舶によって覆われるであろうということ,・・・日本がその政策を変えて合衆国国民に対してあたかも敵のごとく振る舞うことをやめない限り両国の間に長く友好関係を保つことはできないこと,日本の従来の政策が元来はいかに賢明なものであったにせよ,両国間の交際が従来に比べてかくも容易にかつ迅速となった今日では,賢明でもなく,現実に行われ得るものでもないこと,などである。・・・
(「ペリーの日本遠征に関する書簡」,日本アメリカ学会編訳『原典アメリカ史4巻』岩波書店,1955年。ただし,表現を一部改めた。)

問1
 下線部①に関連して,(イ)ここでいう諸国民の法を考究し,体系化に大きく貢献したオランダ人法学者の名を答えなさい。(ロ)このような主権を持つ国と国同士の関係が,ヨーロッパで初めて確認された条約の名を答えなさい。(10点)

問2
 下線部②に関連して,㈹この目的に沿って日米間で締結された条約の名を答えなさい。(ニ)この条約で函館とともに開港された港の名を答えなさい。(10点)

問3
 下線部③に関連して,1830年代に,ある東南アジアの港が欧米諸国に開かれた。その港の名を答えなさい。(5点)

問4
 下線部④に関連して,ペリーの日本来航のすぐ後,イギリスはインド統治において支配体制の大きな変革を行った。インド大反乱をきっかけとして最後の皇帝が追放され,滅亡した帝国の名を答えなさい。(5点)

問5
 下線部⑤に関連して,このような情勢に対処する動きとして,中国の清朝政府は1861年に総理各国事務衝門を創設した。その創設に至るまでの経過を100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。(10点)

  朝貢体制   アヘン戦争  アロー戦争  北京条約   公使

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