次の各問について、それぞれ400字以内で解答せよ。
Ⅰ
古代ローマは、その建国から帝政樹立に至る長い歴史の中で、周辺の諸民族を次々に征服していった。下記の4民族について、①~④の順序で、次の3点を考慮しながら説明せよ。
1. 民族の特質
2. ローマによる征服の歴史
3. 結果としてのローマの変化
① エトルリア人 ② フェニキア(ポエニ)人
③ ケルト人 ④ ユダヤ人
Ⅱ
19世紀末から1979年までのイランの歴史を、欧米諸国との関係をふまえ、次の語句を使って説明せよ。ただし、語句の使用順序は自由とする。
① レザー=ハーン ② 立憲革命
③ ホメイニ ④ カージャール朝
Ⅲ
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸での植民が定着し、熱帯プランテーションが発達する17世紀から、大西洋をはさんだヨーロッパ、アフリカ西海岸、アメリカ大陸の三角形のルートでの貿易が盛んになり、18世紀がその最盛期となった。この大西洋三角貿易で扱われた主たる商品は何であったか。また、この三角貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸植民地にどのような影響を及ぼしたかを述べよ。
Ⅳ
次の文章を読み、近代と前近代における中国の対外関係について、その相違と共通点に注意しながら、要約しなさい。
19世紀の中華帝国にとっては、武力の強いものが侵入してくることは、別に新しい経験というわけではなかった。ただ19世紀の侵略者である西洋の今までにない新しさは、その技術がすぐれているという点にあった。というのは、西洋人が技術的にすぐれているということは、制度の面でも文化の面でも、西洋の方がすぐれていると主張しえたからである。……西洋は外国貿易という媒介を通して中国に接近してきた。したがって西洋の衝撃はこの商業的背景に対してのみ理解することができる。……1842~1943年にいたる100年の間、中国は、西洋の商業や宗教に国を開いた不平等条約というハンディキャップの下におかれた。この不平等条約は共産党が勝利を収める前に廃棄されていたけれども、その思い出は今でもなお中国人に愛国的な怒りを燃えあがらせるのに役立っている。……近代中国の指導者は条約制度が国家的恥辱の価値ある象徴であることを知った。蔣介石はその著『中国の命運』の中で、現代中国のすべての病気――経済的、政治的、社会的、心理的、道徳的――の原因を不平等条約に帰し、共産党はもっと猛烈に包括的にこれを非難した。……西洋列強が中華帝国の上に課した不平等条約の、片務的な点、不平等な点を理解するためには、中国がはじめ西洋の訪問者に押しつけた昔の朝貢制度をみなければならない。条約制度はこれに代わったものといってよいが、この古い朝貢制度は条約制度と同じように不平等なものであった。
朝貢制度は、中国の君主に政治的権威の執行に対する論理的承認を与えている儒教の教義を、国際関係に適用したものであった。有徳の君主が道徳上の模範を示すことによって中華帝国の人民の間に威信と影響力とをもったのと同じように、かれらは中国文化の範囲外にいる未開人を無条件にひきつけた。儒学者にとっては、辺境の未開部族は当然に中国文化のすぐれている点を認め、その恩恵を求めてくるべきものであった。皇帝は全人類を支配せよという天命の執行者であるから、すべての「遠来の客」に情深く寛大であることはかれの任務であった。外国人は謙虚に服従することによって、皇帝の恩恵に対し報いるべきものと思われた。
一たび外国人が、天子は世界における唯一無二の存在であることを知ると、この恩恵と服従という相互関係は,下賜と朝貢という儀式的な授受の形となってあらわれた。したがって朝貢は中国宮廷の儀式の—つであり,また未開人の中国文化摂取を意味するものであった。朝貢は外国にとって,恩恵であり特権であって,決して恥ずべきことではなかった。本来の中国文化の孤島が何世紀もの間に,昔の文化の中心地から他の中国へと広がり、未開の部族を吸収して行くのに従って,朝貢関係という儀式の形は発展して,一つの機構となった。そしてこの朝貢という機構によって,帝国外の未開の地域も,すべてを包含する中国中心の世界の中に,その地位を得ることができた。……ヨーロッパ人がはじめて中国に来たときに,朝貢という形式的な行為は,当然にかれらにも期待された。……朝貢制度の秘密は,それが貿易の媒介であったということである。明の歴史書は,長く死滅しているローマの東部領,虚構の公国,辺境の部族を含めて,120以上の朝貢国をかかげている。満州人は辺境の部族を特別の官庁に管理させたので,清代には純粋の朝貢国は,西洋のまぼろしの国を含めて,12以下に減った。……1842~60年の時期に,不平等条約によってつくられた条約制度という法的機構は,イギリスが清朝政府と戦った二つの戦争の結果,直接生まれたものであった。アヘン戦争と呼ばれる1840~42年の最初の戦争は,勇敢な欽差大臣林則徐が,結局において失敗したけれども,広州において麻薬貿易を禁止しようとしたことから直接おこった。イギリスはこれに対して遠征軍を広州に送り,さらに沿海を北上させて,西洋的な平等にもとづく一般的な商業上,外交上の交際の特権を得ようとした。……1842年の南京条約に具体化された原則は,中国側で完全に受け入れられたわけではなく,また条約上の特権はイギリス側から十分だと思われたわけではなかった。したがって条約制度は,イギリス・フランスが第二の戦争を中国に1858年にいどみ、天津条約を締結するまでは,確立されたわけではなかった。天津条約後でさえ,新しい秩序は,イギリス・フランスの連合軍が1860年に北京を占領するまでは,気のすすまない清朝によって認められなかった。朝貢関係から条約関係への移りかわりには,1840年前には広州における衡突の30年があり,1840年後には貿易交渉,強要の20年があったのである。
(J.K.フェアバンク著,古市宙三訳『中国―社会と歴史』上巻 東京大学出版会,1972年。問題作成上,一部省略した。)