東京外国語大学 2017年度 世界史過去問

世界史

〔1〕
 現代のグローバルな市場経済の成立の起点は,16世紀半ばのアメリカ大陸における銀山の開発(新大陸銀)と,銀の世界市場への大量流入にあった。国際的な決済手段として十分な量が供給された銀は,国際通貨として,世界各地に展開していた交易圏どうしを結びつけ,大西洋・インド洋・太平洋という3つの大洋を連結する国際的市場経済への道を開いた。
 次の〔A〕~〔D〕の文章は,この銀の流通が16世紀以降の世界経済に与えた影響を証言する史料の抜粋である。これらの史料をよく読んで,以下の問に答えなさい。〔60点〕

〔A〕
 あれほどに有名な( ① )の丘は,ピルー王国のチャルカス地方にあり,赤道から南極に向かって21度3分の2の地点に位置するため,回帰線内にあって熱帯の限界近くにある。にもかかわらず,そこは厳寒の地で,その地の極からの緯度からいえば,温暖ないし暑いはずであるが,エスパニャのカスティリャ・ラ・ビエハやフランドル地方より寒い。・・・この丘の鉱山は,インカの時代には採掘されていなかった。インカとは,エスパニャ人渡来以前のこの地方の領主である。ただし,( ① )から6レグア離れたポルコ鉱山は開かれていた。( ① )が開かれなかった理由は,銀があるとは知らなかったからだろう。・・・事実,エスパニャ人がピルーに侵入してから12年間も,( ① )やその富の情報はまったく耳に入らなかった。それが発見された経緯は,次のとおりである。
 〔クスコ地方のチュンピビルカ国のグァルパという一人のインディオが( ① )の銀鉱脈を発見し,友人と二人で所有するが,不和に到る。〕ハウハのグァンカは腹を立てて,主人のビリャロエルに事を明かした。ビリャロエルは,ポルコ在住のエスパニャ人だった。彼は,事の真相を知ろうとして( ① )に赴き,彼の召使いが告げた宝を発見して,グァンカに登記させ,彼とともにそのセンテーノの鉱脈に坑打(あなうち)をした。坑打とは,鉱山を発見して採鉱する者に,法律で認められる一定のバーラ〔約84cm〕の空間を自己のものとして印づけることをいう。こうして,法廷で申告すれば,王に五分の一税を支払う限り,鉱山の主となって自分のものとして採鉱ができるのである。結局,( ① )鉱山の最初の登録と申告が行なわれたのは,1545年4月21日,上記エスパニャ人のビリャロエルとインディオのグァンカの両者により,ポルコの鉱区においてであった。〔中略〕
 以上のようにして( ① )は発見されたのだが,これは,エスパニャの幸福のために神の御心の図られたことで,その名も輝かしいカルロス5世皇帝が,帝国とエスパニャの諸王国および新大陸の領地を手に収められた時,かつて世界に知られたうちで最大の富が世の明るみに出されんことを神が望まれたのである。ピルー王国で( ① )が発見されたと聞くと,多くのエスパニャ人やインディオがやって来て,・・・年を経ぬうちに,( ① )は王国中第一の町になった。〔中略〕
 結局,現在では,国王陛下は,( ① )銀山からの銀の五分の一税だけで,毎年百万ペソをお受け取りになり,その他,水銀の富や,これまたひじょうな宝庫である国税からの収入もお持ちである。経験深い人たちは,次のような推測を述べている。( ① )の会計局で課税のために計量された額だが,・・・1574年副王ドン・フランシスコ・デ・トレードの行なった調査の記録によれば,その時までに計量された額は7600万ペソであり,その年以後,1585年までに,王室帳簿によると,3500万ペソが課税対象になった。したがって,1585年までに課税のために計量された額は,1億1100万ペソの精錬額に上る。・・・その年以後,ピルーの船団で運ばれる富はさらに増大した。たとえば,私が帰国した1587年の船団では,ピルーとメヒコの両船団で運ばれた額は1100万ペソで,そのほとんど半分が国王のものであり,そのうち3分の1がピルー産〔の銀〕だった。
 これほどまでに細かい説明をしたのは,神が②エスパニャの国王方に与え給うた力を理解してほしいからである。その頭上には多くの国々や王国の冠が集まり,神の特別のご恩寵によって東西両インディアもその領土となり,その御力を丸い地球上のすべてに及ぼされた。・・・われわれは,謙虚にお願い申し上げねばならぬ。カトリック王は,神から与えられた新大陸の宝を,聖なる教えに敵対する者との戦いに費し,さらに多くを必要とされているのだから,王のかくも敬虔な信心を嘉され,その戦いに全き勝利と成功を与えられよ,と。

(出典:ホセ・デ・アコスタ/増田義郎訳『新大陸自然文化史』〔1590年〕岩波書店,1966年。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

〔B〕
 至尊にして最強なるローマ皇帝陛下,恩寵深き君。
 疑いもなく皇帝陛下には,私と私の祖先が,これまでいかにオーストリア王家に対して誠心誠意その幸福と隆昌に奉仕することに没頭してまいったか,またその間至尊なる陛下の祖父君たる故マクシミリアン皇帝陛下の財政に関係し,おそれ多くも神聖ローマ皇帝の帝冠の要求と獲得に際しては・・・多額の金銭を御用立て申し上げ,しかもそれは,私がただに私共一家のみでなく他の私の優れた友人諸賢からも多大の犠牲を払って調達致したものであり,それによって陛下の高き名誉と幸福への御事業も遂行されえたのであったことを,よく御存じでありましょう。
 ・・・私に対して皇帝陛下は,先般開かれましたヴォルムスの国会において陛下が私と共に計算された・・・あの金額の債務を負うておられるのであります。それは財務官のファルガス様と共に計算いたしましたように,二つの契約で利子を含めて152,000ドゥカーテンで,1521年の8月末まで,ということでありまして,その時から勘定されるべきでありました。私は調達いたしました金額について利子を払わねばなりませんでしたが,・・・これまで何も受取ることができなかったのであります。〔中略〕
 結局,陛下がかような御自身の繁栄をもたらす私の恭順なる奉仕を望まれるであろうとの私の恭々しき奏上を恩恵深くご賢察くださり,ファルガス様と共にもしくは他の方法で調達されて,かように御貸ししたままになっている金額が利子と共に即刻私に返済されるように御下命くださいますよう御願い申し上げるのであります。〔後略〕
皇帝陛下の恭順なる臣,( ③ )

(出典:諸田実訳「( ③ )よりカール5世への手紙」〔1523年〕『西洋史料集成』平凡社,1956年所収。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

〔C〕
 大ムガルの統治下にあり,一般にインドまたはヒンドゥスターンと呼ぶところの,この帝国は,実に広大な面積を有し,四方に広がっております。・・・この広大な国土の中にはきわめて肥沃な土地が多く,・・・そこでは米,麦など,命の糧として必要なあらゆるものが豊富に穫れるばかりでなく,絹,綿,インディゴ,その他旅行記の類に記されている通り,エジプトの知らぬ夥しい商品が溢れているのです。
 更にまた,こういう土地には,人口がかなり多く,よく耕作されている所が少なくなく,そこでは職人が,生来いたって怠け者ながら,必要に迫られるのか,仕事に精を出し,絨緞,錦,刺繍,金銀糸の布をはじめ,④絹や綿を材料とする各種の手工業に従事しており,その製品は国内で使われたり,国外に輸出されたりしています
 これに加えて,金と銀が地上を巡ったのちに,その一部がヒンドゥスターンに来て溜まる様子をご覧下さい。即ち,アメリカ大陸から出て,わがヨーロッパの諸王国に散って行く金銀のうち,一部はさまざまな場所からトルコに運び込まれて,この国から持ち出される商品と引き換えられますし,また別の一部は,スミルナを通ってペルシアに移動し,人びとがこの国に来て求める絹と交換されることが分かっております。・・・この⑤トルコやイエーメンやペルシアにとっても,インドの商品が欠かせないため,この国々は,自国に流れ込んだ金銀の一部を,バーブ・エル・マンデブの近くで紅海に臨むモカと,ペルシア湾の行き止まりにあるバスラと,ホルムズに近いゴメロン即ちバンダル・アッバースとに向けて動かさざるを得ず,そこからこの金銀は,船でヒンドゥスターンに運ばれることになります。・・・その一方で,インドから来る船舶は,インド自体のものであれ,オランダ,イギリス,ポルトガルのものであれ,毎年ヒンドゥスターンの商品を,ペグー,テナッセリム,シャム,セイロン,アチェン,マカッサル,モルディヴ群島,モザンビク,その他の場所へ運んで行きますが,同時にこれらの場所から多量の金銀を持ち帰り,それがまた,前にお話しした金銀と同じ運命をたどるわけです。⑥日本には金銀の鉱山がありますが,この日本からオランダ人が持ち出す多量の金銀も,その一部は,遅かれ早かれこのヒンドゥスターンに流れ込みます。最後に,ポルトガルから,あるいはフランスから,海を渡って直接ヒンドゥスターンに運ばれる金銀も,おおむね商品に形を変えて戻って来るので,残ったものは,他の金銀と同様,ヒンドゥスターンに留まるのです。
 もちろんヒンドゥスターンも,銅やクローブ,ナツメグ,シナモン,象,およびオランダ人によって日本やモルッカ諸島やセイロンやヨーロッパから運ばれる,幾つかの品々を必要としていると言えます。・・・それから,⑦馬が大量に必要であることは,( a )方面から,確実に毎年2万5000頭以上を受け入れているのでも分かりますし,馬といえば更に相当数が,カンダハールを通ってペルシアから入って来るほか,エティオピア,アラブ諸国,ペルシアから海路で運ばれ,モカ,バスラ,バンダル・アッバースの港を経由して入って来るものもあります。

(出典:ベルニエ/関美奈子訳『ムガル帝国誌』〔1670年〕岩波書店,1993年。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

〔D〕
 徳川家が天下を統一される前のことは,いま論ずるにも及ばない。慶長6年以来,外国船が来て商売をしたころについては,まだ定めというものもなかった。そのころは,⑧明国においても万暦のころで,外国との交易を厳重に禁止しているときであったから,こんにちのように中国船が来たわけではない。長崎にはただ西洋の船だけがやってきた。寛永のはじめになって,外国船は長崎に来て商いするように仰せつけられたけれども,オランダ船は,まだ肥前の国平戸に来,寛永の末になって長崎に移ったのである。また大名や商人たちが御朱印状をいただいて外国におもむき,商売をしていたこともあったが,寛永11年に停止された。そのころは,外国から来る船の数も,貿易の金額も,決まってはいなかった。
 貞享2年になってはじめて,中国人との貿易の銀額を6000貫,オランダ人との貿易の金額を5万両に決められ,元禄元年に,中国船の船数を70隻に決められた。〔中略〕
 中国船の数が決まったので,定められた数以上に来た船は積戻しといって,貿易を許されない。また定まった船数であっても,銀額の定めがあるから,およそ一つの船に積んできた物資は,その価銀160貫ばかりのものが貿易を許されて,そのほかのものは,残り荷物などといった。はるばる風浪をしのいできたのに,手をむなしくして帰ることも,また多くの荷物を載せてきて,利益少なくして帰ることも,不本意なので,なんとかして積んできたものを売ることをはかり,・・・年々密貿易が多くなったのである。〔中略〕
 御先代のとき,長崎奉行所に命じて,長崎で,貿易のために費やされた金・銀・銅の数をお尋ねになったとき,「慶長6年から正保4年までの計46年間のことはよくわからない。慶安元年から宝永5年にいたる計60年間に,海外に流出した金は239万7600両あまり,銀は37万4229貫あまりである。・・・」と答えた。〔中略〕
 試みに,長崎奉行所から書き記して差し出したところを基礎として,慶長以来の計107年間に,外国に流出した金銀のおよその数を算定し,また慶長以来,国内で鋳造された金貨・銀貨のおよその数と比較してみると,金は4分の1が失われ,銀は4分の3が失われたことになる。だから,今後,金は百年たてばその半分がなくなり,銀は百年以内に,わが国で使用すべきものはなくなってしまう。・・・わが国に産出する永久の宝ともいうべきものをむだ使いして,外国から来る,ただ一ときの珍しいもてあそびものと交換し,そうした取引きのためにわが国威を落とすようなことは,適当とは思われない。

(出典:新井白石/桑原武夫訳『折りたく柴の記』〔1716年頃〕中央公論新社,2004年。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

問1
 ( ① )について,ここから産出された銀は,スペイン,ポルトガル,オランダを経由して,広く世界に流通し,世界各地の経済・社会に多大な影響を及ぼした。1545年に発見されて以降,世界の銀生産量のほぼ6割にあたる年250トンの銀を産出し続けたとされる,現在のボリビアにある( ① )の銀山の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,アメリカ大陸の銀を掌握したスペインは,香辛料の獲得とカトリック布教を目指して東南アジアに進出し,先行するポルトガルと競合しつつ,フィリピン諸島の領有に成功した。当時,中国商人が運んでくる生糸や陶磁器などの奢侈品を,大型帆船(ガレオン)で太平洋を横断してメキシコのアカプルコまで運び,商品の対価としてメキシコ銀を積載してフィリピンに戻り,これを中国商人が自国の船で中国へ持ち帰っていた。こうしたガレオン交易の拠点で,スペインが1571年にルソン島に建設した都市の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 ( ③ )の商人は,史料〔B〕の書簡において,神聖ローマ皇帝カール5世に対し,皇帝選挙の資金として貸し付けた金額の返済を迫っている。ハプスブルク家の皇帝やスペイン王室に多額の貸付を行なった,この商人が属する一家は,高利貸付やティロルなど南ドイツの銀山経営によって一大国際金融業者に登りつめたが,新大陸銀の流入を原因の一つとする商業革命のなかで次第に没落していった。( ③ )の商人の家名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④に関連して,1522年ポルトガルはインド東海岸南部のサントメに商館を置き,この地方特産の綿織物を輸出した。のちにオランダ商人によってこの地域から日本にもたらされた縞模様の綿織物は,「桟留(さんとめ)縞」として江戸町人の間で人気を博した。1640年イギリス東インド会社は,サントメ北方5kmに商館と要塞を築き,その後の植民地支配の拠点の一つとした。ベンガル湾に面したインド南部のこの港町の名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,16世紀を通じてヨーロッパ諸国にとってオスマン朝の存在は大きな脅威であった。1529年のオスマン軍によるウィーン包囲や1538年の海戦でのオスマン海軍への敗北は,神聖ローマ皇帝カール5世にとって重い負担となった。その子,スペイン王フェリペ2世は,新艦隊を建造するなど,スペイン海軍の増強をはかった結果,1571年の海戦でついにオスマン海軍を撃破した。しかし,この戦争のために多くの人員と資金を割くことを強いられ,多額の銀が国庫から失われた。この1571年の海戦の名を答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,当時の日本は,世界有数の銀産出地として名を馳せていた。日本の銀は,明朝やポルトガル商人,オランダ商人との取引によって東アジア内で流通した後,交易圏間のやり取りを通じてインドにまで到達していた。周防の大内氏と博多商人によって開発され,戦国時代から江戸前期にかけて,日本銀の最大の生産地であった銀山(現在の島根県)の名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦では,インドに流入した金銀を対価として中央アジアから大量の馬が輸入されていた様子が記述されている。中央アジアは,「シルクロード」という言葉から思い起こされる東西交通路ばかりでなく,インドやロシア方面とを結ぶ南北交通路の要衝にも位置していた。ティムール朝の王子であったバーブルは,シャイバーニー・ハンを首領とするトルコ系遊牧民( a )の攻勢に敗れ,インドに転進して1526年にムガル朝を興した。のちにブハラ・ハン国,ヒヴァ・ハン国,コーカンド・ハン国を建てた( a )に入る民族の名を答えなさい。〔5点〕

問8
 下線部⑧に関連して,明は海禁をおこない民間貿易を厳しく取り締まったが,武装した密貿易集団の活動に悩まされ,また北方辺境でも交易を求めて侵入する勢力と対峙した。密貿易集団の妨害をすり抜け朝貢貿易を通して流入した銀は,北方勢力への軍事費に投入された。結局,明は北方には交易場を開設し,海禁もゆるめて民間交易を許さざるをえず,以後,日本銀を含む大量の銀が明に流入することになる。明を苦境に陥れた上記のふたつの外敵を表す言葉を漢字4文字で記しなさい。〔5点〕

問9
 上記の史料〔A〕~〔D〕からは,新大陸銀をはじめ,世界の銀山で産出された銀がさまざまな商品と交換されて世界各地に流通していく様子が理解できる。
 新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか,それが世界の交易にどのような影響を与えたのか,400字以内で説明しなさい。
 その際,〔A〕~〔D〕の史料と問1~8の設問を参考にし,必要に応じてその解答を用いなさい。また,本問の解答の冒頭で,史料〔A〕の記述をもとに,新大陸の鉱山で生産された銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明しなさい。また,以下の語句を必ず使用し,使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔20点〕

黒人奴隷   生糸   ガレオン交易

〔2〕

 今日のファッション(服飾文化)の起源は,20世紀前半にある。20世紀初頭のパリではデザイナーが次々と新しいデザインを生み出し,それが量産され,輸出・消費されることで世界的な流行(モード)が形成された。また,アメリカでは,大量消費社会のための大衆服(マスファッション)が誕生し,その生活様式とともに世界に広く普及していった。以下の文章は,20世紀のファッションが人々の身体や社会とどう関わったかについて論じた著作からの抜粋である。文章を読み,以下の問に答えなさい。〔40点〕

 20世紀はアメリカの世紀といわれている。
 アメリカ合衆国は政治や経済において世界をリードしたことはもちろん,生活や文化の分野でも先頭を走り,いわゆる「アメリカ的生活様式」を全ての国々に普及させていった。〔中略〕
 大衆消費社会の原動力となったのが大量生産システムであり,これをもっとも効果的に発展させたのがヘンリー・フォードである。自動車はヨーロッパにおいて上流階級の高価な娯楽として発展したが,フォードはアメリカにおけるその可能性を察知して,大衆にも手が届く安価な交通手段として提供しようと考えた。彼は生産システムの徹底的な合理化をおこなうことで,T型フォードという大衆車をつくりだしたのである。・・・ヨーロッパはアメリカのフォーディズムに熱いまなざしを向けていた。①ウラジミール・レーニンはソヴィエトの労働管理システムをテーラーイズムに基礎づけようと主張したし,またフェルディナンド・ポルシェはナチス・ドイツ体制におけるフォルクスワーゲン量産のためにフォード本人と会見している。コミュニズムもファシズムも大量生産に未来の可能性を見いだそうとしていた。
 イタリアの思想家アントニオ・グラムシもまたフォーディズムを礼讃したひとりだ。彼はそこに伝統に縛られた労働者の群れを新しい労働者階級へと再生させるポテンシャルを見ようとした。・・・グラムシは「フォード方式は合理的であり,一般化されるべきだ」と述べている。
 20年代,ヨーロッパの芸術・デザインの世界でもアメリカへの賞賛が高まった。②バウハウスやロシア・アヴァンギャルドはジャズやハリウッドなどの大衆芸術に着目し,それを古い伝統を破壊するモダニズムの文化として評価した。〔中略〕
 フォーディズムが主導してきた大衆消費社会は豊かな生活をもたらしたが,これはたえず新しいものを投入して古いものを陳腐にする流行のサイクルに人々をまきこんでいくこととなった。商品は本来の役割や機能よりもデザインの新しさによって買い替えられるようになっていく。それは自動車も日用品も全てがファッションとなる社会の到来を告げていたのである。
 アメリカンファッションといえばまず想起されるのはジーンズだろう。現在は世界中の老若男女から支持されているジーンズはもともと一部の労働者の作業用ズボンであったが,これが一般に街で着られるような「ファッション」になり始めた時期も1930年代であった。
 ドイツ移民リーバイ・ストラウスがニューヨークから行商をしながらサンフランシスコにやって来たのは1853年。ここでストラウスは総合雑貨商を設立する。・・・彼の客は西部の開拓民や探鉱者だったので,その商品のなかにはテントや幌馬車に使うためのキャンバスが含まれていた。ストラウスはこの丈夫な布地をつかって探鉱者のためのズボンをつくることを思いつく。・・・これがジーンズの原型といわれているが,現在の( a )とはまだ似て非なるものだったようだ。よりジーンズらしくなるためにはもうひとりの立役者,ジェイコブ・デイビスの登場を待たねばならない。
 デイビスは1831年バルチック海の都市リガに生まれ,56年にサンフランシスコにやってきた。ストラウスよりも2年若く,同じユダヤ系移民である。彼は仕立屋として馬車の幌やテントをつくっており,リーバイ・ストラウス社からオフホワイトのズック地を購入していた。
 ある日,デイビスは浮腫を病んだ木こりの妻から夫のために過酷な労働に耐えるズボンをつくるよう依頼を受ける。彼はズック地をつかった大きな作業着を仕立て,たまたま仕事場にあったリベットを前後のポケットに打ちつけた。・・・この丈夫なズボンはロコミで話題となり,デイビスのもとに同じものを求める人々がやってくるようになる。その注文をこなすうちにズック地が足りなくなり,9オンスのブルーデニムを生地として使うようになったのが,いわゆるブルージーンズの始まりであった。
 思わぬ反響に気をよくしたデイビスは,アイデアが無断使用されないようにリベット打ちズボンの特許を取ることにしたが,特許取得申請のための費用がない。そこで織物の仕入先のリーバイ・ストラウス社に申請手続きを代行してくれるように持ちかけた。・・・リーバイ・ストラウス社はこれに同意し,1873年5月にリベット打ちポケットの特許を取得したのであった。同社はデイビスを製造担当として迎え,工場を準備して本格的な生産体制を整えることにしたのである。〔中略〕
 ( a )のジーンズがより広い層にファッションとして受け入れられていくのも大衆消費社会の成立と深く関係していた。
 そのきっかけのひとつは③ハリウッド映画である。1930年にはB級西部劇が年間100本以上も製作されるようになっており,そこにジーンズ姿のカウボーイたちが描かれていたせいで,西部開拓という伝統との結びつきが印象づけられたのだ。・・・この時期,ジーンズは耐久性だけがとりえの作業着から西部開拓神話という付加価値のついたファッションになった。大自然に生きる寡黙なカウボーイはアメリカのひとつの英雄像である。④( a )をはくことはこうしたイメージを消費することになったのだ。〔中略〕
 1930年代以降,ニューヨークの服飾産業は自国のデザイナーに注目しはじめる。・・・背景には,パリモードの輸入が困難になっていく社会状況があった。とりわけ29年の⑤世界恐慌によって不況になり,保護政策のために輸入関税が高くなったこと,さらに40年ナチス・ドイツによるパリ占領によりフランスとの交流が途絶えてしまったことは大きい。・・・パリを失った服飾産業は自国のデザイナーを売り出す必要に迫られたのである。
 この時期に脚光を浴びたデザイナーにクレア・マッカーデルがいる。・・・彼女が最初に放ったヒット商品は「モナスティックドレス」(1938年)である。これはダーツやウエストラインのない筒状のドレスで,ウエストをベルトでとめて着用するというデザインだった。・・・シンプルで快適な着心地のこのドレスは人気を呼び,大量に模倣されることになる。〔中略〕
 アメリカが第二次世界大戦に参戦すると,第一次大戦と同じく⑥女性たちは労働力としてかり出され,服装はさらに活動的な方向へと進んでいく。物資不足から布地や副資材が不足するなかで,マッカーデルはデニムやジャージーなどの労働用の素材に可能性を見いだして積極的に使っている。・・・それ以外にもマッカーデルはダイパードレス,ベイビードールドレス,一枚布のジャンプスーツ,レオタードスーツのような新しいデザインを発表している。これは若々しいからだを念頭においたスポーティなカジュアルウェアであった。・・・マッカーデルの独創性はデザインだけではない。彼女のファッションは限られた上流階級を対象とした仕立服ではなく,都市の中産階級に向けた既製服である。それは工場生産を念頭において効率を考えたりコスト意識を持ったりする必要のある分野だった。マッカーデルにとっては戦時中の物資制限も創作の障壁ではなく,最小限の素材から衣服を組み立てるための挑戦となったのである。〔中略〕
 大量生産,活動性,シンプルさ―こうした特徴をそなえたアメリカンファッションが誕生したのは,クレア・マッカーデルをはじめとする多くのファッション業界の人々がアメリカのアイデンティティを意識的に構築しようとしたからである。しかしこの時期にそれが模索されたのは,当時の国際情勢の状況とも緊密に結びついていた。〔中略〕
 ⑦アメリカンカジュアルはその後しっかりと根を張り,合衆国が超大国として君臨するとともに,アメリカ的生活様式の一部として世界にひろがっていく。ジーンズ,Tシャツ,スニーカーなどとともにカジュアルウェアはあらゆる地域の人々に受け入れられていく。シンプルで活動的な服装はフォーディズムの論理と倫理を身体をとおして体感することにほかならない。この身体性はのちに戦後アメリカの文化支配をとおして世界標準の身体モデルとなっていくのである。

(出典:成実弘至『20世紀ファッションの文化史一時代をつくった10人』河出書房,2007年。なお,一部を省略し,また一部の表現を改めた。)

問1
 下線部①に関連して,ロシア革命後の1918-1921年初頭に,ロシアのソヴィエト政権は,工業を国有化し,労働力を管理する一方,農民にノルマを課し,農産物を強制的に徴発する政策を取った。ロシア革命後の内乱と干渉戦争に対処し,急速な共産主義化を目指したこの政策の名を答えなさい。〔5点〕

問2
 下線部②に関連して,1920年代のパリでは,美術や音楽,文学,建築といった分野において前衛的な芸術運動(アヴァンギャルド)が花開き,服飾では,クリスチャン・ディオールやココ・シャネルが上流階級向けに高級仕立服(オートクチュール)の斬新なデザインを提案していた。彼らのなかには,自らアメリカを訪問し,アメリカの大衆文化を目の当たりにするなかで,この「新しいモダニズム文化」から多くを学びとる者も多かった。ニューヨークの高層建築を賞賛し,後に上野の国立西洋美術館を設計した,「近代建築の父」と呼ばれるスイス生まれの建築家の名を答えなさい。〔5点〕

問3
 下線部③に関連して,ハリウッドなどの20世紀の映画音楽は,ドイツ語圏出身の様々なユダヤ系亡命音楽家によって支えられた。第一次世界大戦後のドイツのリベラルな風潮のなかで,音楽家たちは,映画をはじめとする新たなメディアを積極的に受容し,クラシック音楽に新しいメディアの技術を取り入れていた。彼らは映画のための音楽,芸術としての映画音楽を追求していたが,1933年にドイツの共和制国家がナチスの台頭によって終焉を迎えると,アメリカ亡命の道を選んだのである。第一次世界大戦後のドイツに成立したこの共和制国家の名を答えなさい。〔5点〕

問4
 下線部④に関連して,20世紀初頭にはリーバイ・ストラウス社のほかにもH. D. リー・マーカンタイル社など多くのデニム製労働服メーカーが競合し,互いに差異化をはかるなかで,消費社会には不可欠のブランド戦略という考え方が生まれた。1930年代,西部劇の流行にともない観光客向けに乗馬やキャンプ体験を提供する牧場が現れると,リーバイ・ストラウス社はそのコスチュームとして女性用のジーンズを売り出し,ジーンズのファッション化に一役買うとともに,カウボーイとジーンズを結びつけた宣伝によって知名度を上げていった。( a )に入る世界で最も古いとされるジーンズのブランド名を答えなさい。〔5点〕

問5
 下線部⑤に関連して,1929年10月のニューヨーク株式取引所における株価暴落以降,アメリカ経済は急激に悪化した。経済の立て直しを図るアメリカがドイツをはじめとする海外各国から資本を引き上げたことにより,恐慌は世界規模に拡大した。このとき,植民地を持つ国々は,本国と植民地の間で経済圏を形成し,高い関税をかけて圏外からの輸入を抑制することで自国の経済を保護した。フランスもまた,海外の植民地を囲い込んで独自の経済圏を形成した。このフランスの排他的経済圏の名を,当時用いられていた通貨の名称を用いて答えなさい。〔5点〕

問6
 下線部⑥に関連して,女性解放の動きのなかで,新奇な服装に身を包んだ「モダンガール」が現れる一方で,二つの世界大戦は,既製の労働服を着る女性労働者を大量に生み出した。女性たちは,まずは福祉,食糧配給,繊維業などの生産活動に動員されたが,戦争が長期化すると,男性の仕事とされていた武器製造などの重工業部門にも動員されるようになった。このように,軍事だけでなく,それを支える国民生活のあらゆる部門に,男女を問わず,国民が動員される戦争のあり方を何というか。その名を答えなさい。〔5点〕

問7
 下線部⑦に関連して,「アメリカ的生活様式」は1920年代から30年代にかけてのアメリカ社会の繁栄のなかから生まれたものであるが,このアメリカの繁栄がもたらされた経緯とその後の社会の変化について100字以内で説明しなさい。その際,以下の語句を必ず使用し,用いた箇所すべてに下線を引きなさい。〔10点〕

第一次世界大戦   フォード   移民法

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